1.伝統的農民革命は「新王朝を樹立し、旧制度を復辟する」造反



 前章に論じたように、ヨーロッパにおける民主革命の勝利発展に伴い、様々な異なる性質の革命が引き起こされたばかりでなく、異なる形式の復辟が生み出されてきた――彼らは時に共和の「名」をもって専制復辟の「実」を行い、時に「革命の名義をもって」専制復辟の心を蔽い隠し、ある時は伝統的農民革命を利用して民主革命を攻撃し、ある時は新しい「革命」を呼び掛けて民主革命の成果を転覆した。このため、異なる性質の革命およびその本質をいかに識別するか、異なる形式の復辟およびその危害をいかに鑑別するか、理論と実践の2つの方面から名義と事実の根本的な区別をいかに見つけ出すかということこそが、民主革命が種々様々な専制復辟に打ち勝つことができるかどうかの重大な前提となる。伝統的革命と現代の革命の中から最も復辟の本質を備えた、また危害が最も大きな「革命」を見つけ出そうとするならば、「伝統的農民革命」と「現代の共産主義革命」の2つに勝るものはない。本章は、この「2つの革命」の由来、内容、本質、危害に対して行った検討、分析、弁論である。


 


1.伝統的農民革命は「新王朝を樹立し、旧制度を復辟する」造反


 


 この世界において、とりわけ伝統的農民を主体とする国家においては、伝統的農民革命が最も同情を引くものであると共に、専制復辟の要求とも最も気心が通じたものであることは間違いない。特に、「新王朝を樹立し、旧制度を復辟する」ことしかできないというその歴史的本質と、わが祖国の歴史において、再三にわたって生死を繰り返してきた専制統治を促したその歴史的特徴、さらには現代共産革命の思想的基礎、暴力形式および革命の主体的勢力との間の歴史的関係は、我々が探求しなければならない重大な課題である。


 


第一、専制制度は伝統的農業社会そのものの政治形式である


 


周知のように、人類は原始社会の後期まで発展するにいたり、生産の発展と生産における男女の地位の変化により、父系氏族がしだいに母系氏族に取って代わり、これにしたがい、個人の家庭がしだいに社会の一つの基本経済単位となっていった。これにより、一夫一婦の家庭関係がしだいに強固になっていく一方で、家庭小生産に対する管理は家庭権力の形成をもたらし、財産の管理・分配・継承に対する形式も含め、しだいに男子すなわち家庭における夫の「家父長主義」の地位を形成していった。これより、この家父長主義的地位からしだいに形成された家父長主義的管理方式は、小生産を主要生産方式とする伝統農業社会の中において、政治と経済の管理構造の原始的胚胎となった。その後、宗法家父長制などのような伝統農業社会の基本管理形式が、ここから移行していったばかりでなく、家父長制から発展してきた伝統農業社会の社会政治形式である専制制度およびその発展・沿革・完備・強化のいずれもまた、これを細胞と雛形としている。皇帝は天下で至尊の大家父長であり、「父母官」の一語は家父長的専制政治の実相をより鮮明に浮き彫りにしている。そのため、分封型の貴族政治、封建専制であれ、あるいは中央集権型の郡県政治すなわち君主専制であれ、その家父長制の形式と内容が改められていない限り、彼らの専制統治の本質は決して変わることはない。そして、専制統治への反抗、反対、さらには打倒を図ろうとする様々な欲求と表現もまた、彼らが最終的に伝統的農業社会そのものの解体と消滅、小生産と家父長制をベースとする専制制度そのもの改変を推し進めることができないならば、同じように専制統治の自己復帰とその強化をただもたらすだけに過ぎない。歴代の農民革命は、現存の専制統治を打倒することができるだけであり、決して専制制度全体を変えることはできない。せいぜい、「改朝換代」(旧王朝が滅び、新王朝に変わる)を実現する共通の歴史現象であるに過ぎないのは、すでに早くからその正しさが事実の上で証明されてきた。


農民は確かに専制統治に反抗してきた。専制統治に対する農民の造反は一つの普遍的な歴史現象をなし、無数の人々の同情、支持、さらには利用を引き出してきた。しかし、農民革命とは、農民の絶体絶命の境地における迫られた造反であり、社会制度の変革を要求する主導的変革ではなく、皇帝を打倒して自らが皇帝になろうとするものであり、ゆえに近現代の民主革命と完全に異なる性質を有しているのだ。国境を警備する兵卒であった陳勝・呉広が反乱の旗幟を掲げたのは、秦に背いても死ぬし、秦に背かなくても死ぬからであった。『水滸伝』における「迫られて梁山に登る」(追い詰められてやむを得ず事を起こす)に対する様々な活き活きとして描写は、まさに歴代の農民革命の起因に対する高度の文学的な概括である。歴代の農民造反の英雄の各々は、「早くに王を称する」か、もしくは「緩やかに王を称する」かであり、決して王を称せず皇帝になろうとしないということではなかったという事実は、農民造反革命の基本的性質を証明している。


 


第二、天命観と大同思想は伝統的農民造反の思想の理論的基礎である


 


 歴代の農民革命は共に上述のようなはっきりとした性質を有しており、その根本原因は家父長制と小生産をベースとする専制制度であり、まさしく伝統農業社会そのものの社会政治形式であり、伝統的農民自身の政治制度に他ならない。それゆえに、専制制度とそれが内包するものならびに外延するところの様々な専制観念は、統治と被統治の二つの方面において同一性を獲得することになる。いわゆる統治者の思想とは、統治の思想である。これに加え、伝統的農業社会全体の緩慢な発展と長期にわたる自己防衛の中で、一方では専制統治の要求の維持により、他方では経済発展のレベル低下により、文化発展の巨大な制約をつくり出した。農民は長きにわたって無文化・無思想の立場に置かれることを余儀なくされ、また観念そのものの「簡単明瞭」な性質のため、彼らは何世代にもわたって一そろいの「専制思想と専制政治」の簡単な観念を受け入れ、継承していった。たとえば、「天命、君臣、父子、三綱五常、三従四徳」などである。この一そろいの簡単な専制観念はまた、農民が絶体絶命に陥り、危険を冒すことを決心した時には、彼らが蜂起するための「思想の原動力」にもなり得る。その中で最も重要なのは、農民革命造反の第一の思想の旗印とも言うべき「天命」観である。いわゆる「順天応人」「天命難違」「天人合一」などは、人間世界の王朝の興廃は天の意志を示しているということに他ならない。「天命に順(したが)う者」だけが「治める」ことができ、「天命に順う者」だけがは「反する」ことができる。ここにもう一つの「同一性」がある。そのため、統治者と造反者を同じ合理的な立場に向かわせる。ゆえに、陳勝・呉広が蜂起するにあたっては、魚の腹から取り出した「陳勝王」と書かれた黄色の絹によって「天命」の帰するところであることを示す必要があった。漢末の黄巾の起義においても、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」という天命を変革する声を叫んだ。ロシアの18世紀の農民革命の指導者であるプガチョフは、造反の端緒において「ピョートル3世」を自称したのは、自ら「天命を受けた真の天子」という身分を勝ち取るためであり、それによってエカチェリーナ王朝に対する反乱が「天命」によるものであることを示そうとしたのである。


 伝統的農民革命造反の第二の旗印は、絶対平等を求める大同思想である。その生まれた原因の一つ目は、家父長制と小生産によってもたらされた専制制度が、権力と財産の占有、分配および継承の上で、過酷な階級区分を生み出したことである。二つ目は、この過酷な階級制度と極端に不平等な社会生活を擁護しようとする専制統治者たちが、とりわけ旱魃や飢饉などの困難な時に、往々にして被統治者である広大な農民が依存する生活の最低条件を奪うことである。これは伝統的農民とその代弁者である伝統的な知識人を刺激し、平等を求める思想をもたらした。「朱門酒肉臭,路有凍死骨(金持ちの家では酒も肉も有り余って臭い匂いを発しているというのに、道端には凍え死んだ人の骨がころがっている)」という強烈な訴えは、不平等な生活に対する詩人の憤りと苦しみをすでに表している。「安得広厦千万間,大庇天下寒士倶歓顔(千万間もの広い家が手に入ったら、天下の貧しい人々をそこに住まわせて喜びを共にしたい)」という限りない望みは、世の中の平等に対する詩人の明確な追求をさらに表している。だからこそ、失意の中国の伝統的知識人は、彼らの「桃源郷の夢」の中で大同思想に対して熱心な憧れを示している。だからこそ、伝統的農民はあえて危険を冒して蜂起する時、平等を求める思想を絶対平等を求める大同の理想へと激烈に変化させていくのだ。陳勝には、「苟富貴、無相忘(もし将来、富貴の身分になっても、お互いに忘れないようにしよう)」という約束があった。王小波と李順は「貧賤を均しくし、富貴を等しくす」と提唱した。李自成は「闖王を迎えよ、闖王が来たならば年貢は納めなくてよい」と宣言した。洪秀全は西洋宗教の教義と伝統中国の農民造反の具体的実践を結合させ、起義造反の目的すなわち「天国における平等な生活」を実現しなければならないということを鼓吹した。17世紀の英国民主革命の過程においては、「穴掘り人派」の農民が出現し、「真正水平派」称された。19世紀にロシアで農村へ向かうことを呼びかけた「ナロードニキ」たちは、「ロシア農民の身体には生まれながらにして共産主義の本能がある」ということを提唱した。東洋においては、誰もが「大きな肉を食らい、大量の酒を飲む」ことが伝統的農民革命の最高の理想であり、西洋においては、誰もが「大きなビーフステーキを食らい、大量のビールを飲む」ことができることが、共産主義革命の「偉大な理論の源泉と巨大な革命の原動力」となった。これにより、絶対平等を求める大同思想は、伝統的農業社会の過酷な階級観念全体の対立面となると同時に、その全体イデオロギーの一部分となった。ゆえに、西洋であれ、東洋であれ、それは一つの理想の追求となるとともに、伝統的農民およびその代弁者である伝統的な知識人が階級社会と不平等な現実に対して批判し、反逆するための指導の原動力となった。さらには、ヨーロッパの空想的社会主義の一つの主要な源泉となり、特にマルクスが共産主義革命を発動しようとするための重要な思想的根拠となった。


 そして、歴史の事実が示すところでは、東洋においては、天命観と大同理想の相互作用によってもたらされた、不平等社会に対する中国の伝統的農民の造反と革命は、かつて一度として「天下大同」の社会を真に築いたことはなかった。西洋においては、マルクスによって発動された共産主義革命の結果は、ただ東洋の遅れた農業社会において、より不平等でさらに階級化が進んだ残虐な専制的全体主義制度を次々につくり出したに過ぎなかった。これからわかるように、この絶対平等を求める理想は、伝統的農業社会の一つの恒久的な空想に過ぎない。この恒久的な空想の悲劇は、それが永遠に実現できる可能性がないことにあるが、この恒久的な空想の魅力は、それがあまりに美しすぎて刺激を与えすぎるということにある。そして、この恒久的な空想の巨大な危険は、それがいったん思想の武器となった後に、原始的な感情と宗教的熱狂を誘発し、伝統的農民の熾烈な造反精神と恐るべき破壊力を呼び起こすことができ、さらには新たな専制復辟の死路へと向かう道、すなわち専制制度と専制統治の全面的復帰と再生を切り開くことができることである。


 


第三、伝統的農民革命の運命、特徴、危害


 


一、伝統的農民革命の歴史的運命


 天命観と大同理想は確かに伝統的農民造反の二重の思想的原動力だが、この二重の思想的原動力の相互間の矛盾性と背反性こそが、伝統的農民革命の理想の恒久的な空想的性質を決定したばかりでなく、伝統的農民革命の歴史的結末、歴史的本質、歴史的特徴の共通性をも決定した。なぜなら、「天命観」が伝統的農民の最も重要な観念として変えることができないものであるならば、いかなる伝統的な農民造反であれ、必ずや「理想の天子の革命」に至るからである。「中国の伝統的農民革命の結末はただ3つだけである。1つには、旗揚げに成功し、農民革命の指導者から皇帝になり、天下を手に入れる。2つには、革命の力あるいは果実が旧統治集団の人によって利用・簒奪され、旧王朝が滅び、新王朝に変わる。3つには、農民造反革命の失敗である」[1]


 上述の3つの結末の中で、3つ目が最も多く、2つ目がこれに次ぎ、1つ目は極めて稀有である。


 1つ目と2つ目の結末にせよ、旧王朝が滅び、新王朝に変わるだけであり、君主専制制度を改変するわけではなく、皇帝を打倒して自ら皇帝になるか別の者が皇帝になるということに過ぎない。ゆえに、これは君主専制制度の復辟である。農民革命が成功した日は、すなわち君主制度の復辟の時である。これにより、貧賤を均しくし、富貴を等しくすることを求める農民革命の理想は、新しい「天命」の確立、旧制度の回復と新しい階級の区分に従って、やがて単なる空念仏となる。ヨーロッパにおいては、14世紀以降、封建領主によって発動された農民戦争と農民を主体とする宗教戦争により、宗教意識と宗教権力が過剰に浸透し、表面上において農民戦争の性質をぼかし、単純な農民革命によって導かれる王朝交代という事実を探し求めることは困難である。東洋、とりわけ中国においては、純然たる農民革命の成功によってつくられた王朝交代の事実は、ただ秦末の劉邦と元末の朱元璋によって指導された農民革命だけがその例証となる。亭長の劉邦が指導した農民革命が成功を遂げることができた理由は、第一に項羽を代表とする六国の旧貴族による封建制復辟を目指す反乱が、劉氏による権力奪取が成功へ至る道を掃き清めたことである。第二に、劉邦を代表とする農民革命の力が本質において、分封式封建専制制度復辟を企てようとする六国の旧貴族の反撃と「分封を廃し、郡県を置き、中央集権を実行する」秦の始皇帝に対する肯定と継承であり、歴史の発展に従ったものだということである。朱氏による明王朝建設は、異民族統治という直接的な前提に依存しており、その革命の対象は蒙古族の貴族の利益のみを代表する元王朝であり、漢民族の地主と士人の利益に影響を及ぼすものではなかった。あるいは、漢民族の地主と士人がしだいに合流し共に造反したからこそ、漢以来2000年間にわたる農民革命の中に、唯一の成功物語を残すことができたのだと言えよう。そして、あの真の雇われ貧農出身の皇帝である朱元璋が一たび帝位に即位し、本当に明王朝の建国の皇帝になると、彼の故郷の民謡として歌われたのは、彼の素晴らしい「革命の功績」ではなく、「朱皇帝が現れてから、10年のうち9年は凶作」といううら悲しい絶唱であった。朱氏の明王朝は、かつて歩んできた中国君主専制制度を少しも変えることも弱めることもなかったばかりでなく、この専制制度を救い、強化するために、これを空前の専制の水準に高めた。これは農民革命としては成功したが、「新王朝を建設し、旧制度を復辟する」悲劇的な結末、すなわち大同理想の徹底的破滅をもたらすだけであり、最も有力な歴史的証明と言わざるを得ない。


 


二、伝統的農民革命の歴史的特徴


 農民革命の思想的原動力の1つである天命観念は、農民革命の成功により、伝統的農民革命のもう1つの思想的原動力である「貧賤を均しくし、富貴を等しくする」ことを求める大同理想を最終的に夢幻として消し去ってしまうため、武装蜂起当初に革命を呼びかけた「平等と大同」のスローガンは、たちまちに空念仏となる。新たに権力を分配し、地位を定め、階級を区分することによって刺激された農民英雄たちは、権力の地位や金銭と美女に対する追求と争奪をめぐって必然的に内訌と内乱の発生を引き起こし、まず内部から腐敗し始める。陳勝・呉広の「張楚」はこれによって瓦解し、太平天国の洪秀全・楊秀清の内訌はこれによって起きた。皇帝となった劉邦・朱元璋は「内訌を起こし、功臣を殺し、無実の一味を滅ぼし」、帝位、王権、そして「一姓天下」を維持擁護した。これによってわかるように、まさに内訌によって農民革命の力が大きく削がれ、また内訌こそが、武装蜂起した英雄たちによる血で血を洗う恨みに満ちた相互殺害の中で、人間世界の平等と天下大同を追求する理想を破壊したのだ。洪秀全と楊秀清・韋昌輝との狂気じみた内訌が終わった後、毎週末に洪氏天朝の官員たちが天京郊外に行って「天下の男たちは皆われらが兄弟であり、天下の女たちは皆われらが姉妹である」を謳う「天条」を語る時には、立ち止まってこれを聴く者はもはや何人もいなかった。まさに農民革命の内訌の必然性が、農民造反の英雄たちの失敗を運命づけていたのである。同様に、まさに成功後にわざと獄に捕らえ内訌をつくり出す意図があればこそ、「飛鳥尽きて、良弓蔵(おさ)められ、走狗烹(に)らる」の手段によって一つの姓が支配する国家(一姓江山)を守ることで、新王朝の確立と新たな真の天命を受けた天子の君主統治の地位を保証したのだ。


 伝統的農民の天命観と大同理想の対立と矛盾は、伝統的農民革命のもう一つの基本的な歴史的特徴である、明白な暴民運動の性質をも決定した。これは、伝統的農民革命造反が求める天命を変える根拠を、まさに天命観が与えたためである。「帝王将相いずくんぞ種あらんや」は「貧賤を均しくし、富貴を等しくする」という大同理想であり、伝統的農民造反革命に思想の旗印を与えた。なぜなら、ただ平等を叫ぶことによってのみ、人心を扇動し、造反を呼びかけることができるからである。しかし、一方で平等を追求して革命を起こしているにもかかわらず、他方で革命の成功によって平等を破壊しており、そこから必然的に革命の結果と革命の追求との大きな乖離が生まれ、恒久的な空想が実現できないための狂気的な破壊をもたらす。これに加え、長期にわたる専制統治のもと、伝統的農民は思想に欠き、文化に疎く、ただ簡単な専制観念を持っているだけに過ぎない。また、専制統治に対する一知半解によって形成された、思想・文化・知識と知識人に対する軽視と蔑視は、知らず知らずのうちに伝統的農民革命造反の非理性的要素を強化した。もし、時代・社会・官界と高官たちに対する農村の失意の小知識人すなわち出仕していない者たちの憎悪の感情と、この憎悪の感情によって形成された様々な変態心理およびその必然的な作用に、さらに決起することの快感、内訌の残酷さ、ならず者の無産者の介入と放恣を加えるならば、そして、とりわけ彼らがすでに烏合の衆の指導者となった時であれば、個々の農民革命は「無思想をもって反思想とし、非文化をもって反文化とし、知識蔑視をもって知識を滅ぼし、人欲滅却から人欲の極限までの膨張へ向かう」暴民運動へと完全に変化し得る。そして、これらすべては、あの失意の小知識人と広大な農民造反者の眼には、情にも理にも適っているものとしてばかりでなく、筋道の通った気宇壮大なこととして映る。中国歴代の農民造反が例外なく、破壊を得意とし、殺戮をもって鬱憤を晴らし、知識蔑視を本性とし、士人の迫害を天職とし、天下平定を偉業とするなどの数々の暴民行為の根本的な由来がここにある。黄巣が長安を陥落させた後、「誰彼かまわず暴力をふるっては金目の物を出させた」だけでなく、「裕福な家見つけては主人を追いだして自分のものにした。人妻や娘を奪っては慰み者にし、官吏を捕らえれば迷わず殺した。放火された家屋は数知れず、都に留まっていた皇族や王侯は残らず殺害されてしまった」[2]。黄巣が死ぬと、秦宗権はさらに「老儒を殺し、家屋を焼き、都は荒れ果て、ただ乱れるばかりとなった」[3]。李自成は蜂起当初は「破った都市の子女や玉、絹織物は均しく分ける」としていたが、北京に入ると、「功績のある皇族や文武の高官800余名を牛宗敏のもとに送って金品財物を略奪し、むごたらしく傷つけて苦しめた」[4]。李自成とともに蜂起した張献忠は、襄城を攻略した時に「およそ190人の学生の鼻を削ぎ落し」、四川に入った後には、科挙を通じて士人を登用するという名目で「青陽宮において士人を集団殺害し、中園において成都の住民を生き埋めにし......4人の将軍を派遣して死体を各県に分けて葬った。事が失敗すると、億万を超える宝物を錦江に投げて水の流れに任し、何一つ残さなかった」[5]。太平天国における洪秀全と楊秀清の内訌の時、韋昌輝は兵を率いて一夜のうちに楊秀清の手下3万人以上を殺害し、長江の水の色を変えた。そして、毛沢東は「農民が立ち上がればこっちのものだ。彼らは地主の家の中に突っ込み、小娘や若婦人の歯茎の上にさえ潜り込んでいく」[6]。小地主出身の出仕していない、農村の失意の青年であった毛沢東のこの言葉は、「農民が立ち上がった」生きた情景を鮮やかに描き出しており、農民革命造反の暴民運動的な特徴ならびに彼自身がそうであった失意の農村小知識人の心理状態と変態を見事に適切に表現している。農民にとって重要なのは、郷村の中で仕事をせずにぶらぶら遊んでいる無頼たちにどう対応するかである。無頼たち――美名は「ならず者無産者」――にとって[7]、革命とは何か? 革命とは、他人の財物を分け、他人の財物を食べることである。革命とは、「まっすぐ他人の家に入り、他人の衣装を奪い、他の町にもっていって売る」[8]ことである。革命とは、財産をもつ全ての人の家を潰し、財を散じ、彼らに反対するすべての人を徹底的に批判し、「二度と立っていられないほど打倒する」ことである。まさにこのように毛沢から「最も断固として、最も徹底的に、最も勇敢に」行ったと認められた「革命」(下巻第2章の引用文を参照)であるからこそ、伝統的農民造反の暴民運動的な性質および特徴が余すところなく暴露されており、毛沢東によって説かれた「革命は暴動であり、一つの階級がもう一つの階級を打倒する激烈な行動である」という「革命理論」は最も有力な歴史の証明と事実の証明を提供している。


 


三 伝統的農民革命の民主革命への被害


 伝統的農民革命は「新王朝を建設し、旧制度を復辟する」という歴史的本質を有しているため、世界の専制の歴史とりわけ中国君主専制制度の発展史において、伝統的農業社会が自己調節を行う一つの歴史方式となった。ゆえに、伝統的農民革命は古い専制制度を転覆させ、新しい民主制度を建設する民主革命となることができないばかりでなく、革命の結果として民主革命とは正反対の方向に向かっていく。さらに、先に述べたように、自由主義の生産経営方式は伝統的小生産と伝統型小生産者の「天敵」であり、工業革命と自由経済によって拡散された新鮮な歴史の息吹をもたらすとともに、人の心を揺り動かす民主と自由の信念をももたらした。それは政治思想の領域における専制イデオロギーに対する一大進攻であるだけでなく、伝統的小生産方式ないしは伝統的農民生活方式に対する徹底的な大破壊であるため、必ずや伝統的農民の反対に遭遇する。このため、伝統的農業社会を基礎とし、伝統的農民を主体とする国家において、民主革命がすぐにこの基礎を粉砕し改変する十分な力と条件をまだ備えておらず、なお被圧迫・被搾取農民が民主革命の同盟軍になり得ると期待している時、民主革命はこれによって力の暫時的な強大化を獲得することができるかもしれないが、またこれにより完全に自らを恐ろしい禍根の下に埋めてしまう可能性がある。民主の力を取り除くことで、革命初期の成功の後にすみやかに土地と農民の問題を解決することができる。なぜなら、農民の革命家たちは民主革命が勃発した直後に民主革命に取って代わる可能性があり、あるいは民主革命が勝利した途端に民主革命に背き、あるいは民主制度が築かれるとすぐに向きを変えて民主政権を攻撃し、革命の名義のもとに専制制度を再建する。こうして、民主革命と専制復辟の繰り返される対決の艱難の過程に、革命の名義で専制復辟を実現する強大な社会的な力がさらに加わった。もしこの国の伝統型農民革命がさらに近代西洋科学によってカムフラージュした「共産主義革命理論」を受容したならば、それによってもたらされるのは、より狂気に満ちた「革命」の激情である。すなわち、本質的に復辟を求める欲望は、ある一定の歴史条件のもとにおいて、「一つの旧世界を破壊する」ことができるのみならず、「一つの新世界を壊滅する」ことさえできる。ロシアの70年以上にもわたる悲劇の歴史、中国の1949年以後から今日に至るまで続く専制復辟の現状、そして、東欧とアジアのいくつかの遅れた農業国が第二次世界大戦後に「革命」によって再び専制の災厄を被った悲劇の過程は、すでにこの歴史の真理を証明している。




[1] 高爾品「論天京之変」(『優秀歴史文学評論選』湖南人民出版社1983年)

[2] 『新唐書』「李逆列伝」。

[3] (明)「李逆伝」

[4] 同上

[5] (明)「張逆伝」

[6] 毛沢東「湖南農民運動考察報告」

[7] 下巻第2章注釈を参照。

[8] 魯迅『阿Q正伝』


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