摘要:19世紀ヨーロッパの歴史発展の由来、本質、方向――マルクス主義が生まれた国家基礎、社会条件、個人環境――マルクスの理論の源泉、理論の誤った道、理論の要――共産主義革命を鼓吹し、発動したマルクスの理論の錯誤、社会的根拠、歴史的本質――現代共産主義制度は栓制度の最高段階である
1848年にマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を共同で発表して以来、世界は大きな変化と変遷を遂げてきたばかりでなく、大きな発展と進歩をもたらしてきた。マルクスが預言した「資本主義は必ず滅亡し、共産主義が必ず勝利する」という「歴史法則」は、その願いの通りに彼の進歩したヨーロッパの故郷において実現しなかったばかりでなく、世界の東側の主として東ヨーロッパと東アジアのいくつかの遅れた農業国と地域において、彼らの「革命」理論に基づいて残酷な逆行を実施したとはいえ、最終的には自己崩壊と全面崩壊の失敗の立場に向かっていった。150年来、世界が専制から民主へと向かう歴史の大きな趨勢は、民主が再三再四にわたって専制に打ち勝ってきたことを証明しているだけでなく、マルクス主義が民主の進歩に対する一種の歴史的反動であることをも証明している。それは単に世界が専制から民主へと向かう歴史発展の中に大きな混乱をつくり出しただけでなく、権力奪取と権力奪取の手段、専制と専制の範囲、暴力革命と暴力専政の方式を人類史上、未曽有の「水準」にまで高めた。そして、15億人の災難と殉難の「革命実績」をつくり出し、血塗られた「赤色記念碑」を打ち立てた。
第一、19世紀ヨーロッパの歴史発展の由来、本質、方向
歴史事実として、15世紀のヨーロッパにおいてルネッサンスが起こるとともに、さらに科学の大きな発展が起きた。前者は人間性と人道上の尊厳を求めて中世の宗教専制思想の桎梏を打ち破り、改めて人間世界に回帰した。後者はコペルニクスの太陽中心説によって、ヨーロッパのカトリック教会に致命的な一撃を与えた。このことによって、16世紀は宗教改革と科学発展の時代となった。中世において絶対至尊であったカトリック教の教義は、自らの分裂によってルター、カルヴァン、アングリカンの三大教派を形成した。科学は次第に宗教思想の鎖から脱し、日進月歩の勢いで進歩と発展を遂げていった。こうして、中世の教皇が人類の宗教教義を統一しようとした努力は失敗に帰しただけでなく、宗教思想統治と宗教専制統治の下り道を歩むこととなった。17世紀は単に科学興隆の時代であるだけなく、デカルトの懐疑哲学を生んだ時代でもあった。デカルトは理性――神を使って科学の真偽を判定しようとし、表面的には科学を詰問することになったが、実際には科学の発展のための道を切り開こうとしたものだった。なぜなら、神だけがその天上の権威をもって、地上の宗教による科学発展に対する束縛を斥けることができたからだ。その後、スピノザもまた「汎神」の思想によって、科学を「神」の地位に押し上げた。こうして、教会の権威が次第に衰退し、科学の権威が日増しに上昇していく新時代が出現した。
まさにこのような一つの全く新しい時代の条件のもとにおいてこそ、自由経済は封建ギルドの制約と封建権力の圧迫を突破することを求め、人文科学は思想と文化の解放へ向かうことを求め、社会政治はさらに政体と制度における革新を求めた。これらすべては疑いもなく、伝統的農業社会がまさに解体と衰亡に向かい、現代工業社会がまさに形成と発展に向かっていることの前触れであった。17世紀にはイギリス民主革命が勃発し、18世紀にはフランス民主革命が勃発した。前者は世界初の民主的な新政体を生み出し、後者は世界初の民主的な新国家を生み出した。新政体は、英国民が革命と復辟との繰り返される対決を経験した後、君主政体に譲歩を迫り、君主政体との調和によってもたらされたものである。その後、無血の民主革命の中、また科学発展の前進のもと、「虚君共和」の道を歩み、工業革命を誘発し、これによって人類史上空前の成果を獲得した。まさに「革命の賜」(孫中山の言葉)である。新国家は、革命と復辟の繰り返される対決がおよそ19世紀全体を貫いた、その「直接的な結果としての共和」(孫中山の言葉)であり、ヨーロッパならびに全世界に民主を呼びかけ、専制に反対する旗幟となった。
もしオランダ、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ国家の民主革命がイギリス、フランスの民主革命と類似しており、均しく相次いで「革命と復辟」の繰り返される対決という艱難の過程を経験したと言うならば、それはつまり、19世紀のフランス革命を指標とする民主革命の暴風雨は、専制を打倒し共和を樹立しようとするイタリアの民主革命を誘発しただけでなく、オーストリア=ハンガリー帝国のくびきから脱し、農奴の解放を求めるハンガリーの民族・民主革命をも促進した。これにより、封建的な遅れたドイツはヨーロッパの民主進歩と経済発展に迫られて、慌てて統一された強大な専制帝国を樹立しようとした。ロシアはツァーリ君主専制制度を守るため、一方で専制統治を強化し続けようとするとともに、他方で専制改良の手段を使って革命の勃発を予防しようとした。
一言もってこれを蔽えば、ヨーロッパにおける15世紀からの科学と宗教、民主と専制、自由経済と封建経済との長期にわたる繰り返される対決の後、最終的には19世紀に民主主義が専制主義に打ち勝ち、自由経済が封建経済に打ち勝つ、最後の勝負が決まる時期を迎えるようになった。これこそが19世紀ヨーロッパの歴史発展の由来、本質、方向であり、まさに19世紀ヨーロッパの歴史発展の希望の存するところである。
第二、マルクス主義が生まれた国家基礎、社会条件、個人環境
一、国家基礎と社会条件
19世紀はヨーロッパの専制主義に対する民主主義の、封建経済に対する自由経済の最後の勝負が決する時期であるとはいえ、このことは、民主制度と自由経済が全ヨーロッパにおいて専制制度と封建経済に対して、すでに全面的に勝利した時期が19世紀であるということを意味するわけではない。西欧のいくつかの主要な国家のうち、あるものは民主と専制の艱難の反復対立の中に置かれ、あるものは「汝の内に我あり、我の内に汝あり」という複雑で千変万化の過程に置かれた。東欧のいくつかの遅れた国家、特にマルクスが成長していたドイツは、依然として質朴で無知の只中にあり、封建制と封建経済がなお温存されていた――現代イギリスの学者であるデイビッド・マクレランは、1848年前後のドイツに対する研究の中で、こう指摘している。
「ドイツというのは当時、一つの地理的概念に過ぎず、通常は同じ言語を話し、かつては神聖ローマ帝国を構成する小領邦を指していた。ドイツは基本的には依然として農業国であり、2,300万の人口のうち四分の三が耕作を生業としていた」
「掟に従って自らの農園を経営するそれらの大地主所有者たちは、依然としていくつかの封建的特権を有していた。彼らは財産税を免除され、自らの警察と小法廷を持ち、教会の聖職の授与権を持ち、州議会をもコントロールした。彼らは通常、投機によって得た財産と伝統に頼って蓄積した特権を一身に集め、最高位の公職を占め、軍隊をも掌握した」
「プロイセンには67つの関税の検問所があり、西部各州には71種類もの異なる貨幣が流通していた。ナポレオンが失敗してから1848年の革命に至るまでの30年前後の時間の中で、ドイツ経済の特長として、迅速に工業強国の地位へと発展していった。だが、こうした発展は上から下へ農業社会に市場経済を強いることによって実現したものであり......しかし、自治機関とユンカー地主は依然として社会に対して大きなコントロール権を掌握しており、ドイツの工業はまだ真の発展を遂げていなかった。農業の三度の改革により、人口は迅速に増大したが、成り上がりと手工業職人によって狂わされた都市社会に人口が急激に流入し、階級対立が絶えず増え続けた。これらは各種の政治思想の伝播にとって広大な地平を提供した......手工業者は大量移住し、ある者は国外に行き、ある者は工場に勤め、残された人は資本主義の発展によってもたらされた結果を敵視した。職人と彼らと同じ立場の者たちは、ますます保守的になり......工場の労働者の生活状況はますます悪化し、得るものよりも失うものの方が多かった......」
「ドイツの中産階級は、1789年の革命前のフランスのブルジョアジーとは異なる。彼らは非常に敬虔な教徒であり、その典型的地区がエンゲルスが育ったエルバーフェルトである。そこでは、カルヴァン派の信仰が厳格な僧侶統治観を有しており、造物主のさらなる偉大な栄光のために絶えず造物主から与えられた富を増やしていく義務があると認識している」[1]
これが1848年前後のドイツの国家的基礎である。それはほとんど単刀直入に現代ドイツの封建性と封建統治下のドイツ人、特に労働者と農民のいわゆる資本主義に対する敵視を示している。マルクスとエンゲルスは、まさにこの環境の中で育ったのである。
二、個人環境
デイビッド・マクレランはまた、『マルクス主義以前のマルクス』すなわち青年時代のマルクスの家庭と個人に対する彼女の研究の中で、こう語っている。
「カール・マルクスのような純粋なユダヤの血筋は非常に少ない......カール・マルクスの祖父が言うには、彼の祖先には多くのラビ(ユダヤ教の教師)がいた。彼の妻の祖先はさらに名声があり、彼女はトリーアのラビであるモーゼス・リヴィフの娘であり、モーゼス・リヴィフの父と祖父もともにトリーアのラビであった。そして、カール・マルクスの母の祖先の中においても、かつてラビであった先人は夫の家と比べて決して少なくなかった」
「カール・マルクスの同級生のうち、五分の四はカトリック教徒であり、大多数は中下層の家庭の出身――農民と職人の息子であった」
「中学時代のマルクスはすでに、我々に広範な場を与える、人類のための活動を行う職業を選択しようと決意していた。それは生活そのものに口出しするものではなく、抽象的真理の研究に従事する職業であり、まだ確固とした原則と牢固にして揺るぎない信念を持っていない青年にとって危険なものであると、彼は言っている。同時に、もしこれらの職業が我々の心の中に深く根ざし、それのために思想を支配し、命を犠牲にし、全身全霊を傾けることができるならば、これらの職業はやはり高尚なものであると見なすことができるだろう......これらの職業は、才能がある者を幸せにすることができるが、あまり考えず一時の衝動で従事する者を滅ぼすことだろう」
「彼はまた、こうも述べている。歴史が認めるところでは、同じ目標のために働き、自ら高尚に変わった者こそが偉大な人物である。経験が教えるところでは、大多数の人々に幸せをもたらした人こそが最も幸せな人であると賛美している。そして、宗教そのものが、人々が敬慕する理想的人物とは人類のために自らを犠牲にした者であることを教えてくれている――このような教えを否定できる者がいるだろうか?」
「大学に入ったマルクスは、次のような詩歌をつくることができた。
この邪悪な世界全体に対して
私は情け容赦なく戦いを挑み
世界の広大なものを打ち壊す
それ自身はこの炎を消滅させることはできない
その時、私は上帝のように
この宇宙の廃墟の上をそぞろ歩きする
私の一言一句のすべてが行動であり
私こそがこの俗世に生きる造物主である」[2]
さらに多くの研究が、大学段階のマルクスがヘーゲル哲学に転向し始めたことを明らかにしている。彼の認識では、ヘーゲルの哲学はすでに、現に存在する事物とあるべき姿の事物との境界に、一つの橋梁をかけていた。この時、マルクスは疑いなく、ベルリン大学の法学教授エドゥアルト・ガンスの強い影響をすでに受けていた。ガンスは彼が1836年に出版した著作において、すでに次のように書いている。「サン・シモン主義は、奴隷制がまだ消失しておらず、ただ形式上はすでに存在していないだけで、実際にはしっかりと存在していることを正しく見抜いた。まさに奴隷と奴隷主との相互対立、続いて貴族階級と平民、国王と臣下との対立と同じように、今日ではぶらぶら遊んでいる者たちと労働者が対立している。誰でも工場に行けば、あの何百にものぼる、憔悴し苦痛に満ちた男女を目の当たりにするだろう。彼らは健康を犠牲にして一人のためにサービスと利潤を提供し、ほんのわずかな収入のために生活のすべての楽しみを放棄してしまっている。搾取されている人は動物のように、ただ餓死する自由があるだけである。これが真の純粋な奴隷制の搾取でなくてなんだろうか? これら無産者たちの公民意識を呼び覚まし、彼らが自発的に従事しているこれらの仕事に積極的に参加させるように導く必要がないとでも言うのだろうか? 国家は最も多くの数を占める最貧困階級のため必需品を提供すべきであり、この観点は我々のこの時代における最も深遠な意義を持つ観点である......未来の歴史は一度ならず、プロレタリアートが立ち上がり、ブルジョワジーに反対する闘争を起こすことを求めるだろう。中世の同業組合の中には、ある種の社会労働の組織形式があったが、今ではこれらの同業組合はすでに壊されており、再建することは不可能である。現在、解放された労働者は、同業組合の専制制度と親方の絶対的統治から逃れて、今度は工場主の同様の統治を受けなければならないとでも言うのだろうか? こうした状況を改善する方法がないとでも言うのだろうか? 当然あるはずだ。それは自由な同業組合であり、社会化に他ならない」[3]
疑問の余地がないことは、ここから聞こえてくるのは社会の腐敗を嘆き人民の苦しみに同情する、一人の空想的社会主義者の叫び声である。しかし、この類の「叫び声」は、伝統的農業社会の「大同」の理想に他ならず、社会転換期のまさに消え去ろうとする旧社会の救いを求める苦しみであり、誕生しようとする新社会の怒りに満ちた指弾である。新しい生命が誕生する前に必ず起きる陣痛こそが、その母体から発される痛みに満ちた叫び声を呼び起こすのである。
まさにこうした「怒りに満ちた指弾と痛みに満ちた叫び声」こそが、若きマルクスとエンゲルスの心を揺り動かし、眼を開かせる役目を担ったのであった。しかしも、これらの指弾と叫び声が鳴り響いたのは、1848年以前のドイツであった。この時、イギリスの新政体、フランスの新国家、啓蒙運動の「自由・平等・博愛」のスローガン、ヨーロッパにおいて民主革命が次第に勝利に向かっていく情報、そして革命と復辟の艱難にして複雑な繰り返される対決は、ドイツにとっては『千夜一夜物語』であるにとどまらなかった。また、ライン川渓谷に生活するドイツ人は、ナポレオンに占領されたことがあるとはいえ、彼らはフランスの思想と風潮に共感しているだけに過ぎなかった。ましてや、フランスフランスの自由の気風の影響を受けた封建王侯や大臣たちがフランスの新しい思想や風潮を語るのは、ロシアの宮廷貴族と同じように、単にそれを一次の流行と飾りと見なしているだけであり、腐敗した生活を隠すための一枚の布切れであるに過ぎない。これと正反対に、青年時代のマルクスとエンゲルスは、まさにこの階層の厳しい封建国家の中から、階級と階級の対抗意識を理解し、専制と専制の末路の現実を見出した。特に、宗教の楽園の精神と中世の政教一致の残滓としての政治形式の中から、権力を奪取して人類を救い、地上の楽園を改めて打ち立てる宗教的熱狂を吸収し、さらには、すでにドイツ全体に蔓延していたヘーゲル哲学の雰囲気の中で、ヘーゲルの理性哲学の武器を受け継ぐとともに、これを改竄した。そうした後、彼らははじめてドイツ封建領主とドイツ小市民、つまりいわゆるドイツ資産階級に対する様々な嘲笑と、ドイツの宗法制度に小生産が加わった「真の社会主義の見取り図」を携えて、故郷を離れることを余儀なくされ、パリと英国に向かったのである。
そして、革命と復辟の艱難の対立過程にあったフランスにおいて、彼は専制制度によって残された「廃墟」を突如として目の当たりにし、革命と復辟の対立による「混乱」を目撃し、新社会と新制度によって受け継がれた破産、失業、貧困、労苦などの歴史的「遺産」、さらには人を悲しませる様々な社会現象を見ただけでなく、民主制度と自由経済がその艱難の草創期の発展の中において、完全に出現する可能性のある様々な新しい問題をも見ることができた。このため、フランスとドイツの労働者が三度にわたってストライキを起こし、資本家の搾取に反抗したのを聞いた時、彼が宗教の中から得た全人類を救うという強烈な願望は、彼が青年時代に早くからすでに影響を受け、この時にまさにヨーロッパで流行していた空想的社会主義の思想と完全に同調した。これはヨーロッパの現実的な発展の負の側面――遅れた封建的なドイツを批判するならば、封建統治と封建制度に対する「資産階級」の革命を肯定しなければならないという立場に自然に彼を立たせることになるし、また、新興プロレタリアすなわちプロレタリアートの立場に立ち、新生の「資本主義」制度を批判しなければならないことになる――これは実際には、新興の民主制度と自由経済を批判し、「封建主義」と「資本主義」の双方に弓を撃つことである。換言すれば、彼は一つの批判の理論体系すなわち共産主義の理論体系を打ち立て、思想・政治・経済・文化などすべての方面から、人類史、特に「資本主義制度」に対して大清算と大批判を開始しようとしただけではない。枯れた打ち立てた一そろいの理論体系は「行動の哲学」であるがゆえに、彼は「正義者同盟」――ちょうどパリに流れ着いていたドイツの手工業職人の秘密結社――と連携することができた。「資本主義」の圧迫によって破産したこれらのドイツ伝統農民は団結して立ち上がり、ヨーロッパで最初の「共産主義者同盟」が成立した。それは「裏切り者は必ず処刑される」という秘密結社の掟を変えたとはいえ、「四海の内、皆兄弟」という秘密結社の標語は「全世界の無産者よ、団結して立ち上がれ」というより大きなスローガンに変わっていった。
誠に、まさにこのような国家基礎、社会条件、そしてマルクス本人の成長環境こそが、マルクス主義を生んだ歴史的源泉を構成したのであり、一人の専制主義の新しい宗教的指導者――マルクスをつくり出し、各方面の基礎を築き上げたのである。
第三、マルクス主義の理論の源泉、理論の誤った道、理論の要
マルクス、エンゲルスと彼らの信徒たちは、その理論の科学性および人類文化に対する継承性を標榜するため、該当する理論には三つの正統な淵源があることを再三にわたって言明した。それは、フランスの空想的社会主義、ドイツの古典哲学、そしてイギリスの古典的政治経済学である。同時に、第一の淵源はマルクスの科学的社会主義を生み、第二の淵源はマルクスの唯物弁証法と歴史唯物主義を生み、第三の淵源はマルクスの社会主義政治経済学を生んだ。
問題は、マルクス主義が生まれた理論の淵源にあるのではなく、マルクスがこれらの理論の淵源をいかに曲解し、その後、またいかにこれらを理論の誤った道に向かわせ、「共産革命の名義のもと」に専ら専制復辟を鼓吹する哲学としたのか、ということにある。こうして、まさに艱難の進歩の時代において、恐るべき流血と混乱をつくり出し、そのままヨーロッパの19世紀の歴史発展に対する真の反動となった。
一、マルクスは空想的社会主義を暴力的共産主義に変えた
理想の大同世界、恒久なる共産主義の楽園、搾取も圧迫もない平等社会は、人類の永続への憧れであるだけでなく、伝統的農業社会の恒久なる空想と一種のイデオロギーとなった。それは我々の「国粋」であるばかりでなく、また同じようにヨーロッパの伝統的農業社会の「精華」でもあった。ゆえに、共産主義という言葉は、もしマルクス主義者たちによる不当な蹂躙がなく、単なる人類の一つの願望、理想、文化、夢であるだけだったならば、この世界に永遠に存在していても、何ら差し支えはなかったであろう。それは権力を失った宗教と同じようなものである。ゆえに、マルクスとエンゲルスの誤り、そして罪悪は、彼らが共産主義の理念とその追求を抱いていたということにあるのではなく、彼らによって提案された、共産主義をいかに実現するかの一そろいの理論と手段、すなわち暴力革命、階級闘争、プロレタリア独裁の理論およびその実践が人類に対してもたらした害毒にこそある。なぜなら、これはマルクス主義の本質すなわち理論の要であるとともに、マルクス主義がこの世界に罪悪をもたらした根本理由でもあるからだ。
このことから、我々ははじめてマルクスの「暴力的共産主義」とフランスの空想的社会主義との違いを区別することができ、結局のところいずれが善き空想であり、いずれが悪しき空想であるかを判断することができる。つまり、この空想を実現するために善意の追求方法を提案したのはいずれであり、この空想を実現するために人類の歴史に空前の罪悪をもたらしたのはいずれかということである。
確かに、「共産主義の楽園」に対するマルクスのあらゆる構想は、元々はフランスの空想的社会主義に由来していた。しかし、マルクスがサン・シモンとフーリエの社会主義を「空想」的社会主義として非難した根本的な理由は、社会主義の楽園をいかに実現するかというその方法にあった。サン・シモンは平和的手段を通じて社会主義に進むことを主張し、フーリエは労働者が資本家と連携して共に理想の社会を建設すべきことを願ったが、マルクスが何度も批判して強調したのは、プロレタリアートはただ階級闘争と暴力革命によってブルジョワジーの統治を打倒することによってのみ、完全な解放を獲得することができるということであった。同時に、彼はまた「資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者へと変わる革命転換期がある。また、この時期に相応しいものとして、政治上の過渡期もある。この時期の国家はプロレタリアートの革命独裁の他にはありえない」[4]とも指摘している。その後、レーニンは暴力的手段によって政権を奪取し、また暴力的手段によって政権を堅固にしたため、「階級闘争だけを認め、プロレタリア独裁を認めない者は、決してマルクス主義者ではない」[5]と、さらに強調して言った。毛沢東は、この「楽園」が失われる危険があることに鑑み、マルクス・レーニン主義の革命と独裁の理論を創造的に発展させ、「プロレタリア独裁のもとにおける継続革命」を実行すべきことを強調した。その目的は無論、「革命の名義をもって」さらに彼らの独裁を極端に推し進め、内部において彼らと権力を奪取する仲間に対しても残酷な独裁を実行することにある。
マルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想は、このような一つなぎの革命と独裁の理論の鎖によって「暴力的共産主義」の理論体系を打ち立て、発展させたのである。歴史の発展がすでに証明しているように、レーニン、スターリン、毛沢東ら共産革命の指導者が再三にわたって言明し、革命暴力と革命独裁の方法を用いて築き上げ、守ろうとしたのは、彼ら自身の「一姓楽園」以外にはない。この楽園は、人々にとっては、前代未聞のこの世の地獄に他ならなかった。
これと正反対に、フランスの空想的社会主義たちの「平和的方式によって、資本家と無産者との連携を通じてこの世の楽園を築く」という想定は、この世の楽園をつくるという面においては今なお空想でしかないが、しかし、人類の基本的平等、基本的自由を築き、世界の経済発展を促すという面では、兆層の進歩を得ることができた。なぜなら、民主と自由の政治的追求、進歩と繁栄の経済的発展がすでにいくつかの国家と地域において実現されたからである。さらには、マルクスの共産革命を誘発し、専制復辟統治を繰り返した国家と地域では、マルクスの暴力的共産主義が血なまぐさい空想であるという歴史的本質を一再ならず証明した。人類の進歩によって獲得されたこの血の教訓こそが、現代の共産主義専制の全体主義統治がすでに、そして必然的に滅亡へと向かった真の根本原因である。
二、マルクス主義はフォイエルバッハ唯物哲学の唯心化である。
マルクス主義者たちは、自らがフォイエルバッハ唯物主義哲学の合理的な基本中核を吸収したと言明している。いわゆるフォイエルバッハ唯物主義の基本中核とは、フォイエルバッハがヘーゲルの「絶対理念」を否定し、この「絶対理念」が神の「同意語」であることを示した後に、神が人をつくったのではなく、人が俗世の現実に基づいて神をつくったのであり、物質こそが第一性質であり、意識は人の脳内における物質の「反映」に過ぎないという一種の哲学的認識である。
では、マルクスはどのようにフォイエルバッハ唯物主義の基本中核を受け入れたのだろうか。
まず、マルクスが鼓吹しようとしたのはこの世の革命であり、彼はフォイエルバッハが肯定した物質世界すなわち真実の世界を認めないわけにはいかなかった。これがフォイエルバッハ唯物主義哲学の基本中核に対する彼の肯定と受容を導いた。
次に、マルクスはヘーゲル哲学の影響を深く受けていたため、プロレタリア社会主義革命を発動することは歴史の必然的要求であることを証明するにあたり、彼もヘーゲルと同じように、人類の発展に対する一そろいの認識体系を築き、プロレタリア革命および共産主義の追求に対するその「歴史科学性と歴史の必然性」を肯定しようとした。ゆえに、彼はヘーゲルの帽子を脱ぎ、フォイエルバッハの靴に履き替えた。ヘーゲルの「防止」を天上から地上へと投げ捨てはしたが、ヘーゲルの帽子の中にあった「絶対理念」を、無理やりフォイエルバッハ唯物論の「靴」の中に押し込んだのだ。こうしてヘーゲルが定めた「この世における天上の絶対理念の秩序ある弁証運動」――これは人類発展の本質の客観的唯心主義理論を示している――は、フォイエルバッハ唯物主義の立場に相応しい「人類の歴史発展の法則」、すなわちマルクスによって措定された「人類の五大歴史発展段階理論」へと改造された。いわゆるこの歴史法則は、彼によって呼びかけられ、発動された世界共産主義革命を人類の歴史発展を実現する最高段階、つまり大同を実現する段階の革命として位置づけ、それを肯定し、称揚するだけにとどまらない。さらには、新興の民主主義制度と自由経済形態を、必ず打倒すべき「資本主義の政治制度と経済形態」と定めるための明確な理論の前提を提供した。
フォイエルバッハ唯物主義理論を基礎としてつくり出されたこの歴史発展理論は、本質において、ヘーゲルが彼の絶対理念の帽子の中で規定した世界の必然的発展を、マルクスがフォイエルバッハ唯物主義の靴の中ででっち上げた歴史の必然的発展に変えたものに過ぎない。それは本質的にフォイエルバッハ唯物論の唯心化であり、ヘーゲル化以外の何ものでもない。「ヘーゲルが民族を弁証法を伝達する媒体と見なしたように、マルクスが民族を階級に変えたのと同じ」[6]ようなものである。
また、ラッセルがすばり批判しているように、「マルクスはヘーゲルの後継者であり、ヘーゲルと同じように、一つの公式を使って人類の進化を要約することができると信じており......マルクスとヘーゲルは同じように、彼らが叙述した宇宙がたどってきた過程は、結局のところすべて我々のこの地球で発生したことであり、大部分は地中海付近で発生したことであると認識していた」。ところが、「コペルニクス以来、すでに明らかになっているように、人類はかつて自任していたような宇宙の重要な地位を占めてはいない。およそこの事実を徹底的に理解していない者は誰であれ、自らの哲学を科学的な哲学と称する資格はない」[7]
三、マルクスはヘーゲルの弁証法哲学を共産党の闘争哲学に発展させた
マルクス主義者たちはかつて、その煩わしさを厭わずにこう言明した、マルクスはヘーゲル哲学の合理的な弁証法の核心を吸収したのだと。いわゆる合理的な弁証法の核心とは、ヘーゲルがその哲学の中で論述した対立統一思想である。この思想が指し示しているのは、あらゆる事物の内部には対立と統一という二つの状態が存在しており、なおかつ相互転化の過程が存在している。一方は漸進的変化から突発的変化へと向かう過程であり、他方は量的変化から質的変化へと向かう過程である。同時に、この転化の過程は、一定の条件があってはじめて完成するものである。マルクスは何の躊躇もなくこの「合理的な弁証法の核心」を受容したが、またこの「合理的な弁証法の核心」を極端なまでに誤ったものへと発展させた。それは単純に「対抗」、つまり、ただ闘争という方式によってのみ転化と発展を求める絶対理論である。
マルクスによって絶対化された、絶対的精神に満ちたこの理論は、マルクスが伝統的な造反形式と現代の暴力革命方式の影響を深く受けた結果である。しかしながら、この理論はまた、その絶対性から、暴力闘争形式によって転化と発展を求めるとともに、暴力闘争形式によってすでに獲得した転化と発展を守るという一つの極端な理論の誕生をもたらした。こうして階級闘争と階級独裁
の理論が形成された。だからこそ、マルクスとエンゲルスが起草した『共産党宣言』は、今日までの人類の発展の歴史は、すべて階級闘争の歴史であると言明することができた。特に、レーニンがロシアにおいて、この理論を利用して権力奪取に成功したことおよびプロレタリア独裁を実行した経験は、この闘争と独裁の理論をさらに至高無上の地位へと押し上げた。資本主義から社会主義への転化を実現し、この転化の成果を揺るぎないものとするために、暴力革命は理論上における革命の唯一の手段となったばかりでなく、彼らが革命専制を実行する唯一の道ともなった。革命は、ある階級が別の階級を打倒する暴力行動となるとともに、革命暴力は同じように、ある階級が別の階級に対して独裁を実行する最も有効な手段となった。このことによって、革命暴力と革命独裁――この革命理論の「新体系」は、ついに階級闘争とプロレタリア独裁の理論となるとともに、実際に共産党の哲学を完全な闘争と独裁の哲学へと変貌させた。
同じように、ヘーゲルの対立統一思想を誤った道へと向かわせたこの闘争哲学が、19世紀から20世紀にかけて人類がまさに迅速に愚昧から文明へ、専制から民主へと向かう偉大な歴史転換期の中で、共産革命を実現し、事実上専制復辟を実現した国土の上であったからこそ、熱狂的なマルクス主義の「信徒」たちをして、革命の名義のもとに、暴力によって政権を奪取するとともに、虐殺によって政権を維持させることができたのである。民主が徹底的に消滅させられ、自由が絞殺されたばかりでなく、人類の最小限度の理性と文明さえも、彼らによってきれいさっぱりと殺害された。レーニンはその身に知識分子の銃弾を受けていたため、ロシアの知識分子のために多くの広大な労働改造所を建設し、ロシアの知識分子の思想と肉体に対して徹底的な「革命専制」を施した。スターリンはさらに、革命の名義をもってむやみやたらに逮捕し殺害する「大狂気」をつくり出し、これによって誰もが知る「暴君」となった。毛沢東はその個人の独裁統治を守るため、数え切れないほどの無辜の民を迫害し続けた。とりわけ、100万人を数える知識分子の後、「プロレタリア独裁下の継続革命」という理論の看板のもとに発動された、この世のものと思えないほど悲惨な「プロレタリア文化大革命」は、何百万人もの人々を血の海へと突き落とした。ポル・ポトのカンボジア共産党がプノンペンを陥落させた後、一夜の間に数十万もの生命を虐殺することができたという残忍な蛮行は、もはや言うまでもない。さらには、ベルリンの壁の下で、ただ自由を渇望しただけで、共産党の銃口によって白骨と化した人々もいる。
第四、プロレタリア革命を鼓吹するマルクスの理論の誤り、社会基礎、歴史本質
一、誤った剰余価値観
17世紀から19世紀にかけてのヨーロッパは、政治上においては、まさに民主革命が様々な専制復辟に日増しに打ち勝っていく新しい時代であり、経済上においては、自由主義の生産経営方式によってヨーロッパの社会生産力が極めて大きな発展を獲得したと言うべきであろう。しかし、なお繰り返される対決の只中にある全く新しい民主制度あるいは民主政体は、承認と確立を得られる歴史段階へはまだ遠くたどり着いていなかった。自由主義の経済形態はその形成と発展の中で、貧困、愚昧といった歴史が残してきた様々な社会問題に対して解決を加える余裕がないだけでなく、それ自身の発展の中で必然的に現れる様々な新しい問題が日増しに国家、社会、人民、とりわけ思想理論界が注目する焦点となっていった。そこで、比較的早くに発展を遂げた英国において、現代の政治経済学が生まれた。なぜなら、まさにこの政治経済学こそが、真の英国の民主政治と自由経済が発生し、発展していった時期の政治経済学だからである。マルクス主義者たちがそれを「古典的」と称する理由は、自らに「現代手的」「批判的」という縄張りを残しておきたいがために他ならない。
17世紀から19世紀は、民主政治と自由経済が発生し、発展した新時代だが、いわゆる社会主義思想――あらゆる空想的ならびに自称科学的社会主義が、伝統的農業社会の廃墟の上に新たに立ち上がろうとした「新しい時期」でもあった。その時、思想上においては、イギリスのロバート・オーウェンと彼の「共産主義的コミュニティ」すなわち「ニューハーモニー村の実験」[8]が生み出されただけでなく、フランスのサン・シモンとフーリエの空想的社会主義理論が現れた。経済領域においては、とりわけ英国政治経済学の発展の中で、労働価値論の基礎が築かれた一方で、労働価値の過ちに対する認識も同時に生まれた。1817年にイギリスの経済学者リカードは「商品の交換価値は品物を生産するのに費やした労働に完全に由来する」[9]とすでに主張していた。1825年、海軍将校のトーマス・ホジスキンは最初の「社会主義の答え」として、「資本の要求に反対し、労働者側を弁護する」ことを発表した。この弁護において、もしリカードが主張しているように、すべての労働価値が労働によって与えられたものであるならば、すべての報酬は労働者の所得に帰されるべきであり、地主と資本家が得ているものを間違いなく純粋な搾取物であるととらえている。
トーマス・ホジスキンはリカードの極端に偏った「労働価値論」を使って、空想的社会主義思想のため奉仕しようとした。同時代のイギリスの哲学者であるジェームズ・ミルは、ホジスキンの弁護が一種の「狂ったでたらめ」であると指弾しただけでなく、哲学上の過激主義者すなわち社会主義学説のための道を築こうとする人々を批判するにあたって[10]、さらに「このような見解が広まったならば、匈奴人や韃靼人よりも猛烈な勢いで文明社会を破壊し尽くすだろう」[11]と言っている。
二、マルクスは誤った剰余価値理論を発展させ、変質させた
不幸なことは、この種の見解が世に広まったばかりでなく、マルクス主義政治経済学の基礎を形成したことである。マルクスはイギリスの少数の経済学者の言説である労働価値論と剰余価値理論に対する誤った推量から出発し、労働者の体力労働によってつくられた価値のみを肯定する剰余価値の絶対理論を打ち立て、その他のあらゆる労働価値を排斥し、労働者以外の一人ひとりの社会構成員が社会に対して負っている労働を一切顧みない。さらには、商品生産と商品交換の「物と物」の関係の中から、「商品生産と商品交換の中に隠された」「人と人」との関係を掘り起こした。この関係は、マルクスの言葉を借りれば、「資本の一つひとつの穴の中には、プロレタリアートの鮮血が流れている」[12]。
マルクスは資本家が労働者の剰余労働価値を搾取していることを理由に、「資本主義の経済がいかに繁栄しようとも、労働者大衆の貧困を取り除くことはできない」と独断的に言明した[13]。マルクスが見るところでは、資本主義の経済発展は労働者大衆のさらなる貧窮化の代名詞に他ならない。そして、マルクスはいわゆる「社会化された大生産と私的占有との間の絶対矛盾」、すなわち資本主義が発展すればするほど労働者大衆はますます貧困になるということから出発して、社会化された大生産と社会生産力の向上に反対した。なぜなら、「生産力の向上は、不可避的に社会の階級矛盾をさらに深刻化させるだけ」だからである。ゆえに、彼は「私有制の消滅」を宣言し、「公有制」を提唱し、「政権奪取はすでに労働者階級の偉大な使命となっている」[14]と言明したのだ。
リカードとホジスキンの誤った剰余価値論は、ついにマルクスの手によって変質化され、資本主義社会の中の人と人との関係の理論、ブルジョワジーとプロレタリアートという二つの階級の対立と対抗の理論、そして、プロレタリアートは現存の資本主義社会制度に対して「永久なる懐疑」を抱くものであり、プロレタリアートは暴力闘争によって資本主義制度を打倒し、暴力専政の手段を使っていわゆる社会主義制度を築かなければならないという理論に発展した。容易に見てとれるのは、まさにリカードとホジスキンのでたらめな剰余価値理論こそが、マルクス主義のすべての理論の発展と理論の証明にとっての誤った前提と基礎を打ち立てたということである。マルクス主義はでたらめら理論に由来しているだけではなく、このでたらめら理論を絶対的に継承し、極端に発展させた「本来の姿」であり、そのすべての理論と理論の証明がでたらめで理屈に合わないことをおのずからすでに証明している。
指摘してなければならないのは、マルクスが人と人との関係をもって物と物との関係に代替し、政治闘争の原則をもって経済発展法則の道に取って代え、それを消し去ったことである。その結果、政治が経済に取って替わり、政治をもって経済を消滅させることになった。マルクスは不幸にして彼の時代において共産専制君主になることはできなかったが、レーニン、スターリン、毛沢東、その他のあらゆる大小の共産専制君主たちは、暴力を使って政権を奪取し、また暴力を使ってプロレタリア独裁を実行する歴史過程全体において、常に権力政治からのみ出発し、経済法則に従わずに行った諸々の作為は、彼らの国家、民族、そして国民にどれほどの災害をもたらし、いかなる貧窮の局面をつくり出したか知る由もない。これに反し、マルクス主義の政治経済学によって死刑を宣告された「資本主義制度」――実際の民主主義政治制度と自由主義生産経営方式は、その後の100年余りの間、大いなる発展を獲得しただけでなく、日一日と我々のこの世界の貧窮と立ち後れた様相を変え、さらにはマルクスによって断定された「プロレタリアートとブルジョワジーの決して調和できない矛盾」、すなわち「労資衝突」を解決するために、少しずつ歴史の新局面を切り開こうとしている。
三、マルクスの資本主義認識の誤り及びその性質
明らかに、マルクスは二つの重大な理論問題の違いを混同したために、「資本主義」という全く適切でないこの概念を経済形態の概念と見なして批判を加え、また政治制度の概念と見なしてこれに反対した。こうして、自由主義の経済形態を消滅させ、民主主義の政治制度を打倒するための、完全に誤った根拠を見つけてしまったのだ。
まず、この「資本主義」という概念を使って「自由経済」の概念に取って代えたことは、決して無視できない重大な誤りである。なぜなら、結局のところ資本主義とは、三つの基本的内容、つまり元手資本、投資、そして利潤に他ならないからである。その一つの基本的な形式は、「資本・儲けと再投資・さらなる儲け」ということの絶えざる繰り返しに他ならない。もし市場のリスクという情勢がないならば、この循環する繰り返しは続けていくことができ、利潤は稼げば稼ぐほど多くなり、投資もますます大きくなっていく。これに反し、ももし市場のリスクに遭遇する情勢下で販売危機が生じれば、製造あるいは仕入れた商品が売れず、または原価割れする状況となり、利潤は減少し、元手資本は元本割れを起こし、さらいは資金を借りる能力も失われ、投資の減少をもたらし、最終的には投資行為の終焉を迎えることになりかねない。すなわち、「元手資本を用いて投資を行い、利益を稼ぐ行為」を終わらせることを余儀なくされる。これによってわかるように、元手資本があれば、投資をすることが可能であり、投資をする者は利潤を稼ぐことができる。そして、投資家すなわち資本を有する者の経済活動によって形成された社会商品生産と社会商品売買の現象は、マルクスによって非難された「資本主義」社会にのみ存在するものではなく、人類に生産と交換と発生して以来、発展してきたものである。ヨーロッパでは、中世以前から商品の製造と売買があり、投資家がいた。アラブでは、紀元前から商品の製造と売買を行う繁栄した都市があり、「資本主義の繁栄した光景」が出現していた。中国では、秦の始皇帝以前から個人経営者が存在し、明清両代の大商人は巨万の資本を有しており、人々の羨望を集めた。マルクスの理論に基づくならば、「大資本家」がいたことになる。そのため、もし単に元手資本、投資、利潤等が自由であり、権力によるコントロールを望まず、市場の調節と制約のもとに置かれた経済活動によって構成された社会経済行為を、マルクスが批判する「資本主義社会」特有の経済行為、経済罪悪と見なすならば、それは道理の上においても、情理の上においても話が通じないであろう。
次に、マルクスによって非難された時代と社会においては、上述の経済活動と経済行為は確かに空前の自由な発展を遂げていた。しかし、この発展が空前の自由を得ることができた原因は、一つには、少しずつ専制制度の圧迫を突き破り、封建権力の鎖から脱し、封建商業ギルドの制限を打破することができ、次第に自由競争と自由発展の機会と条件を獲得することができたことにある。二つには、その発展そのものが、社会全体の思想上および政治上の巨大な変革の要求を突き動かすようになり、民主革命の勃発と勝利を推進したことである。三つには、民主革命の勃発と勝利、特に政治上の自由民主制度の艱難に満ちた確立が、また転じて自由主義経済形態の形成と発展を推進した。民主政治と自由経済というこうした相互作用する発展関係は、世界に政治上の光明と進歩をもたらしたのみならず、世界に経済上の繁栄と隆盛をもたらした。さらに、人類の基本的権利が世界のいくつかの進歩した国家において次第に、そして基本的に実現したこと、また、自由経済形態そのものの成立と成熟は、その根本において初期の労資関係を変え、マルクスのいわゆる労働者階級と資産階級の調和することのない矛盾を、解決できる時代へ、すでに解決した新しい時代へと少しずつ向かわせている。これこそは、近代ヨーロッパと世界の歴史発展の政治的本質と経済的本質である。マルクスは、この本質を理解しなかったばかりか、はじめからこの本質を曲解し、さらいはこの本質の反対側に立ち、「資本主義」を単に経済活動の社会経済行為と自由主義の経済形態と同等視し、これを民主主義の社会制度と混同して語り、さらにはこれらを「資本主義制度」として論じ、批判を加えて打倒しようとした。これは理論上において笑うべき誤りであるだけでなく、実際上においても、近現代ヨーロッパ、近現代の世界の歴史発展に対する真の反動である。
四、マルクスが鼓吹するプロレタリア革命およびその対象と動力
しかし、マルクス主義の哲学は認識の体系であるだけでなく、行動の根拠であり、またスターリンが言うところの「行動の哲学」でもある。つまり、マルクスは理論において「資本主義経済と資本主義政治」を批判し、否定したばかりでなく、行動においてもこの新しい経済形態と政治制度を打倒し、資本を持つ者――ブルジョワジーを革命の対象にしようとした。ただ、この敵は旧専制制度を覆す歴史闘争の中において、かつて一つの重要な社会的勢力として革命の舞台で活躍したことがあるため、マルクス主義者たちは専制統治に反対する民主革命を公然と否定することができない。そのため、彼らはあの革命を反封建革命と規定するとともに、ブルジョワ革命と規定した。それは、封建専制制度に反対し、資本主義の搾取制度を樹立するということを意味している。表面上から見れば、マルクスは「ブルジョワ革命」を第一次の合法的な革命と見なした。しかし、彼がそれを合法と認めた原因は、より「合法」的にそれを次の革命、つまりプロレタリア革命の対象に変えるということにあった。このようにして、マルクス主義はヨーロッパの封建主義と専制主義に反対する「革命の旗」を受け継ぎ、この旗印を利用して、さらに一歩進んで、新生の民主制度と新型の自由経済に反対する「継続革命」を引き起こした。かくのごとく、革命という言葉は変わっていないものの、革命という言葉の対象と内容はすでに天と地ほどの差がある。
これにより、民主革命に参加した「資産階級」は、「革命」の敵となり、「資産階級革命」の勝利によって打ち立てられた「資本主義制度」は、マルクスの「革命」によって打倒されるべきものとなった。これがその第一である。第二に、この革命に対象がすでにできたからには、必ずや自らの主体が必要になってくる。この主体は言わなくても明らかである。すなわち、まさにブルジョワジーの搾取と圧迫に遭っている労働者階級、すなわち資本主義政治経済制度と搾取し圧迫するプロレタリアートと「調和できない」矛盾を有しているプロレタリアートであり、またマルクスが言うところの新興プロレタリアである。
一体、何がプロレタリアートなのか? 何をもって「新興プロレタリア」と呼ぶのか? 英国の哲学者ラッセルはかつて、「プロレタリアートは19世紀の概念であり、少なからずロマン化されており、おそらくは別の何物かであろう」[15]と述べている。ラッセルの言葉は不十分であり、また不正確である。だが、プロレタリアートは19世紀の概念であるという彼の指摘は、確かに間違っていない。なぜなら、プロレタリアが一つの階級となることができたのは、完全に17世紀から19世紀の工業発展、すなわち機械化された大生産によってもたらされた結果であるからだ。工業革命によってもたらされた機械化された大生産がなければ、プロレタリアートというこの「階級部隊」が形成されることはなかった。しかしながら、問題は機械化された大生産が「新しい階級」を生み出したことにあるのではなく、重要なのは、この「新しい階級」が形成された「源泉」がどこにあったのかということである。
マルクス主義者たちの答えは素晴らしい――「破産した農村から来た」と。もしそうであるなら、さらにこう問わなくてはならない――「破産した農村から来た人というのは、伝統的な農民とその子孫のことではないのか?」と。もしこの問題が成り立つならば、我々は19世紀のプロレタリアートに対して、このような定義を加えなくてはならない、すなわち、プロレタリアートとは農村の破産によって農夫の服を脱ぎ捨て、労働者の服に着替えた伝統的な農民に他ならないと。これこそは、マルクス主義者たちが言うところの新興プロレタリアに他ならない。
明確にしなければならないのは、長きにわたって続いてきた旧社会と旧制度の精神的伝統は、この旧社会と旧制度自身の物質的形式とともに、すぐに墓へと葬り去られるわけではないということである。一度の革命で一つの王朝を転覆させることはできるが、一度の革命でこの王朝に複雑にまとわりつく様々な伝統的思想、文化、観念を同時に墓に葬り去ることは決してできない。ゆえに、破産した農村から出てきて農夫の服を脱ぎ、労働者の服に着替えた「新興プロレタリアたち」が、自分が農民から労働者に変わったからといって、ただちに伝統的農民固有の伝統的精神や習慣を放棄することも決してなければ、マルクス主義者たちが繰り返し宣揚しているように、彼らがただちにプロレタリアート固有の「優れた階級品質」を持つようになることも決してない。それとは正反対に、もし毛沢東の言葉を援用するならば、これらの新興プロレタリアたちには、いずれも伝統的農民階級の烙印が押されており、だからこそ農民と自然なつながりがある。伝統的農民と同じように、伝統的小生産と伝統的専制制度に対する先天的な愛情があり、彼らを破産に追い込んだブルジョワジーと資本主義制度に対する先天的な憎悪がある。これが、およそラッセルが言うところの「ロマン化された概念」の意味に他ならない。
まさにそうであるがゆえに、まだ労働者の服に着替えていない、つまりまだ新興プロレタリアに変わっていないヴァンデ地方の農民は、ロベスピエールが新生の民主政権を守るために国王の頭を切り落としたことを聞くと、率先して反乱を起こし、「どうして国王なしでいられようか」とのスローガンを高々と叫び、国王と王妃の敵を討とうとしたのだ。これが、ブルボン王朝が捲土重来を果たし、革命を絞殺する第一撃となった。すでに農夫の服を脱ぎ捨て、労働者の服に着替え、新興プロレタリアに変わったロシアの農民は、彼らを破産に追い込み、まさに彼らを「狂ったように搾取し、圧迫していた」ロシアのブルジョワジーに直面した時、彼らのロシア宗法制農村に対する固有の愛情とロシア新興「資本主義社会」に対する先天的憎悪は、おのずから「ロシアブルジョワジーおよびその制度」に対する新しい憎しみと古い恨みを刺激することになった。なおかつ、一たびこの新しい憎しみと古い恨みが彼ら自身の「共産主義の本能」を鼓舞し、「プロレタリアート」というこのロマン化された概念と「プロレタリア共産主義革命」というさらにロマン化されたこの「革命」が刺激され、激しく揺さぶられる時、レーニンによって発動され、ロシアの破産農民すなわちロシアの新興プロレタリアが主体となったこの「革命」が、ロシア二月民主革命およびその成果に対して徹底的に背き、公然と反撃に出たことは、それが可能なことであったのみならず、必然的なことだったのである。
五、マルクスのプロレタリア革命と伝統的農民革命の歴史的関係およびその現実の発展
疑問の余地がないのは、中国のプロレタリアートと中国の伝統的農民のような、ヨーロッパの伝統的農民と19世紀ヨーロッパの新興プロレタリアとの「自然の関係」を明確に理解することによってのみ、我々は初めて19世紀にマルクスとエンゲルスによって鼓舞されたプロレタリア革命と伝統的農民造反との必然的つながり、すなわち歴史関係を追究することができるということである。また、そのことによって初めて、世界プロレタリア革命とは、思想的基礎にせよ、革命綱領にせよ、暴力形式や等級観念にせよ、内訌外闘にせよ、専制復辟の本質においてにせよ、すべては伝統的農民革命と一脈通じているという歴史の真実を知ることができる。序論の第1章で述べたように、19世紀前半のロシアのナロードニキ派たちはすでに、「ロシア農民の身体には生まれながらにして共産主義の本能がある」と公言していた。同時期のロシアの「真の社会主義者たち」は、より直接的に「真の社会主義とは、宗法式の小土地所有制である」と言っていた。マルクスは彼の『ゴータ綱領批判』において、ラサールが農民革命を否定した過ちを厳しく批判しただけでなく、「プロレタリアートと農民の強固な連盟こそが、社会主義革命勝利の決定的条件である」とさえ指摘している。エンゲルスは彼の著書『仏独農民問題』において、すでに正式に「工農連盟」の原則と「農業の社会主義改造と農業合作化の問題」を打ち出している。パリ・コミューンは、「フランス農民に告げる書」の中において、「兄弟よ、我々のりえきは一致している。我が要求するものは、あなたたちの望むものでもある。我が勝ち取ろうとする解放は、あなたたちの解放にもなる......」と正直に公言している。さらには、第一インターナショナルの社会主義の解釈の違いによって引き起こされた前期の内訌、第二インターナショナルの社会主義の派閥乱立によって引き起こされた絶えざる内輪もめ、そして第三インターナショナル設立当初から出現した外相虐殺と内相虐殺、とりわけ三つの共産インターナショナルの中世ローマ教会に対する苦心の模倣と追求と、ソヴィエト・ロシア、中共および現代のあらゆる社会主義国家が共産革命も名義のもとに、専制制度を再建するために生み出した厳格な等級、終わらない内訌、残酷な鎮圧と習い性となる殺人、特に彼らの知識分子に対する血迷った迫害およびその思想文化に対する絶えざる破壊は、すでに伝統的農民造反の一そろいの重大な歴史的特徴(下巻第2章第4節参照)を鮮明かつ徹底的に余すところなく浮き彫りにしている。同時に、封建的な遅れた農業国家であればあるほど、その伝統的農民造反革命の歴史特徴は共産革命の中においてますます気違いじみた現実として現れる。それはマルクスのプロレタリア革命と伝統的農民革命の歴史的関係に対して、より明確かつ明晰に暴露を加えるものである。
プロレタリア革命は伝統的農民革命と上述の歴史的関係が持っているだけでなく、近現代における伝統的農民革命の一つの極端な発展でもある。いくつかの国家と地域において、この発展は、第一に革命の対象であり、古い専制制度と専制政体から新しい民主制度と民主政体に変わった。第二に革命の指導力と主体的力であり、知識分子と普通の民衆から破産した農村から来た小知識分子と「新型プロレタリア」に変わった。第三に、伝統的農業社会が求める絶対平等の「永遠の空想」は、「科学的共産主義」という美しい包装を与えられた。第四に、共産主義革命の名義を用いて専制復辟を推進し、思想文化上の一致しない見解を持つすべての者も含めた、あらゆる反対者に対する独裁を実行し、それによって最も暗黒な「政教一致」式の専制全体主義統治に完全に復帰した。第五に、階級闘争は「一つの階級がもう一つの階級を打倒する暴力行動」であるだけでなく、権力を奪取した新興の統治集団が革命の名義のもとに人民全体を鎮圧する「暴力手段」でもある。
第五、現代共産主義制度は専制制度の最高段階である
本節の表題は、明らかにレーニンの「帝国主義は資本主義の最高段階である」という、このでたらめな命題の形式を援用している。
レーニンの命題は、理論上において極めてでたらめであるのみならず、実際上においても20世紀の歴史発展によって徹底的に覆された。とりわけ、彼が創建したあの赤いソヴィエト国家は、世界中に知られた赤い帝国であるのみならず、すでに早くからその異国の弟子や孫弟子たちから社会帝国主義と非難されてきた。この赤い帝国は、1991年に天寿を全うしたことにより、すでに実践上において、現代共産主義制度は専制制度の最高段階であるというこの真理を証明した。
これは決して歴史の「罠」ではなく、歴史の「嘲弄」に過ぎない。
私がこの中で述べている現代共産主義制度とは、マルクス主義者たちが発動した世界共産革命によって打ち立てられたプロレタリア独裁の政治制度と国家形式である。共産主義の概念は、何代にも及ぶマルクス主義者たちの手によって、ますます欺瞞と愚弄の「ルービックキューブ」になりつつあるが、「社会主義は共産主義の初級段階である」と「社会主義から共産主義へ向かう歴史段階においては、必ずやプロレタリア独裁を実行しなければならない」という、このようないくつかのマルクス・レーニン主義の「経典」著作によって欽定された概念は、共産主義と社会主義との主要な関係をすでに言明している。そうであるならば、現代共産主義制度を社会主義――共産主義制度とする総概念は、マルクス主義の創始者の「本意」に違背しないだけでなく、本質上においてもこの制度の根本的特徴を体現している。とりわけ、我々がすでに共産主義の理想とマルクス主義者たちが暴力を使って共産主義を実現しようとする手段とを区別するようになってから後は、現代共産主義制度とはすなわち専制制度の最高段階であるとする論証の道は、すでにおのずから掃き清められたと言えよう。
一、専制復辟は専制制度の死亡形式である
上述のように、専制復辟には三つのレベルがある――ひとつ目は王位の復辟であり、二つ目は王朝の復辟であり、三つ目は専制制度の復辟である。一つ目は専制の歴史全体の中に存在するものであり、二つ目は一つの王朝の興廃に由来するとはいえ、それは専制制度の発展と維持の過程の中に存在することもできれば、専制制度の滅亡期全体の中にも存在することができる。もしそれが前者に属するものならば、王朝の復辟であるだけでなく、専制制度の延長あるいは強化でもある。もしそれが後者に属するものならば、専制制度はこの王朝とともに一度または数度滅亡をすでに経験しており、復辟はこの王朝の死に際のあがきであるとともに、この制度の「日が没する直前の輝き」すなわち死亡形式である。現代共産主義制度は、この専制制度全体が死へと向かう段階において、暴力的共産主義理論に依拠して共産主義革命を発動し、専制制度の復辟を再建するものである。それゆえに、たとえいかなる名義あるいは旗印を掲げていたとしても、それは専制制度全体の死亡期における「日が没する直前の輝き」であり、専制制度全体の一種の死亡形式に過ぎない。
二、専制全体主義は専制制度の極端な発展である
専制復辟は専制制度の死亡期の一種の死亡形式であるがゆえに、瀕死の状態は血迷ったあがきをこの形式に与える。この血迷った狂気性は「最後の一息まで」という願望を有するとともに、「死に物狂いで何かを成し遂げようとする」決心と「気概」を持っており、それゆえに、自らの復辟が成功した歴史時期において、歴史上に存在してきたすべての専制手段を動員し、その復辟した専制統治を強化し、血迷ったように復辟に反対する社会勢力を圧迫し、攻撃しようとする。それのため、専制集権は復辟の歴史段階すなわち専制制度の死亡期において、専制の全体主義すなわち各方面の専制統治の強化に向かい、復辟期の専制統治は全方位的に専制統治の極端な方向へと向かっていこうとする。これがその一つである。二つには、専制復辟が専制制度の死亡期の捲土重来であるがために、すでに復辟を実現した専制統治者から言えば、「「思想解放を根絶し、思想異端を絶滅させ、革命願望を消滅させる」手段を採用し、集権を全体主義にまで推し進め、全方位の専制統治を実行し、革命が再び勃発することを途絶させることもまた、何よりも重要なことである。ルイ18世が復辟してすぐに悪名高い「イエズス会」を再建したことが、その最も鮮明な歴史的例証の一つである[16]。
まさにそうであるがゆえに、現代共産主義制度は、第一に理論上において公然と「階級独裁」を宣言し、第二に実践上において階級独裁を看板として公然と一党独裁を実行し、第三に「マルクス・レーニン独尊」のために「百家を殺し尽くして」無制限に思想統治を強化し、第四に自由経済に反対して市場経済を取り締まり、いわゆる中央計画経済の名義をもって無計画の専制権力経済を構築し、さらには国家・人民・「公有制」の名義を借りて民衆全体の財産を剥奪し、これを「公有」に帰すが、実際は「党有」に帰せられており、つまるところ、専制統治集団と専制特権集団の所有に帰せられているに過ぎない。ソ連共産党、中共などの共産党統治集団および彼らに付属する特権階層の人民の財産に対する血迷った占有と併呑、無恥なばらまきと浪費は、現在ではもはや何ら驚くべき秘密ではなくなった。そして、すべての財産を剥奪された人民は、ただ共産党統治集団の労働奴隷、農奴、知識奴隷に陥るしかないという悲惨な運命も、すでに早くから人民によって見抜かれていた。ゆえに、全体主義統治は、実際上において「封建君主専制」に対する血迷った復旧であり、封建君主権勢に対する倍増されたお返しである。レーニン、スターリン、毛沢東、金日成父子とチャウシェスク一家などの大小の共産専制君主たちは、前期における権力に対する絶対的占有と後期における富の超絶的占有により、すでに実際上において歴代専制君主を遥かに超えており、その事実は、すでに共産専制復辟統治の全体主義的性質と罪悪の状態を疑いもなく証明している。
三、政教一致は専制制度の最高形式である
共産専制の実行思想上の残酷な統治は、万人周知のことだが、その本質と要は全面的に復帰し発展した「政教一致」式の全体主義統治にある。
中世の宗教教義は、宗教そのものの経典だが、世間の思想と人類の魂を統治する至尊の地位を獲得したからこそ、封建君主専制統治を政教一致の「魂と肉体を共に治める」最高形式へと高めたのである。これと軌を一にするのが、「我々の思想を指導する理論基礎はマルクス・レーニン主義であり、我々の事業を指導する核心的な力は中国共産党である」とする、このような類の「最高指示」のもと、マルクス主義を宗教経典の至高無上の地位に奉るだけでなく、核心的な力である中国共産党の専制全体主義統治が「党権神授」を獲得する根拠としていることである。この神とは、マルクスと彼の主義に他ならない。毛沢東が率直に言ったように、「マルクス主義もまた宗教であり、革命の宗教である」。だからこそ、中世の政教一致の専制統治の最高形式は、現代共産専制国家の「党政一致」の最高形式に変わることができたのだ。中世ヨーロッパの宗教は、教会の力を借りることができたからこそ、その教権を世俗王権が及ぶあらゆる場所にまで伸ばすことができた。現代共産専制国家の一党独裁は、党権の助けを借りることによってこそ、政権に対する無限の拡張を実現することができた。いわゆる党政一致とは、政教一致の焼き直しに他ならない。
次に、中世の政教一致のこの専制制度の最高形式は、宗教思想統治のパワー――神から「授けられた」権威に由来するだけでなく、ローマ・インターナショナル教会すなわち人間世界における神権の代表の支持にも由来している。軌を一にしているのは、マルクス主義という新宗教が誕生した当初、すなわちインターナショナル教会の形式で彼自身の「共産インターナショナル」を設立したのである。この共産インターナショナル教会は、マルクス主義新宗教の解釈権をコントロールしただけでなく、国際共産主義運動の組織権をコントロールした。ロシアで共産専制復辟が成功する前、それはマルクスとエンゲルスというこの二人の共産教皇であり、「ヨーロッパ共産主義運動」を発動し、コントロールした最高民間教会であった。ロシアで共産主義専制復辟が実現した後、それはソヴィエトロシアに変わり、レーニン、スターリンからフルシチョフ、ブレジネフに至るまで、国際共産主義運動全体およびいわゆる社会主義陣営の最高公式教会を全面的にコントロールし指揮しようとした。相当長い歴史期間において、コミンテルンは国際主義運動と各国共産党組織に対する指揮権、任免権、討伐権を持っており、国際共産主義運動そのものの混乱をつくり出したののみならず、各国政府の転覆を陰で操ったために、いくつかの国の巨大な混乱と苦痛をつくり出した。まさに専制から民主へと向かう過渡期にあった中国は、より深くその被害を受けた。共産インターナショナルの様々なやり方は、中世ヨーロッパのローマ教会と表面の形式上においてにせよ、その内容と実質上においてにせよ、外形と内面の統一に到達している。そして、人民の思想、信仰、文化、出版などの各種の自由を剥奪という面においても、党政一致の共産専制制度は、ヨーロッパ中世の政教一致の専制全体主義統治手段を以心伝心で悟ったものである。自由思想に対するその害と異教徒に対する殺戮、また教理と存し、人欲を滅するその様々な極端で残酷な統治手段は、中世ヨーロッパの政教一致の専制統治と軌を一にしている――「中世の教会教育の目的は、教育を受ける者が宗教生活をするための準備であり、教会と教義に対する彼らの敬虔さを養成するためにあった。このため、中世の学校の七芸は、その教学の内容を教会の目的に合わせていた。文化は教会用語を鍛え、修辞学は聖書の隠喩の解釈を助け、弁証学は倫理学として経典の文章から義理を演繹し、算式は宗教の祭日を計算するために必要とされ、音楽は讃美歌を歌うためにあり、幾何学は聖地と天国の大地の形状を語り、教会は上帝が天地を創造し、星々がその周囲を巡っていると説いていたが、天文はいまだ重視されていなかった......ギリシア語の知識はついに伝承を絶たれた。ギリシアの文献は、ただ少数のラテン語に翻訳された部分しかなく、キリスト教の聖典や教会の大家の著作、少数の古典ラテン著作だけが、残された精神的な糧のすべてであった!」[17]。実のところ、この話の中の宗教教義を「マルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想」に変え、教会を共産党とその各級党委員会に変えるだけで、この話はそのまま「現代共産専制全体主義統治下の忌み嫌われる生活の場面」を描いた絵になる。毛沢東の26年に及ぶ専制統治の様々な時代に逆行することに至っては、よりひどいということはあっても、及ばないということはない。ぞっとする「朝に指示を仰ぎ、夜に報告する」や「赤い太陽」および「最も敬愛する指導者」といった類に言い方は、この人間世界の魔王が人民に迫って無理やりに彼をこの世の上帝に押し上げたということに他ならない。共産専制制度およびその政教一致の全方位にわたる全体主義専制統治に至っては、すでにその国家と人民を想像できないほどの悲惨な境地へと追いつめている。また、独尊の「マルクス教」を守るために、言ってみれば彼らの専制全体主義統治を守るために、一人ひとりの共産専制魔王たちは、いったいどれだけの無辜の民を虐殺したことだろうか。それはすでに現代の世界の人々の誰もが知る悲惨な物語となっている。まさにそうであるがゆえに、疑いもなく確信をもって、共産専制は人類の歴史上、専制がこの世に生まれて以来、最も暗黒の専制であり、共産復辟は人類の歴史上、復辟がこの世に生まれて以来、最も残酷な復辟であり、現代共産主義制度は真の専制制度の最高段階であると我々は言うことができる。
万人周知の通り、マルクスとエンゲルスが自ら起草した「共産党宣言」の冒頭の言葉は「一個の幽霊がヨーロッパを徘徊している」である。それは幽霊であるからには、19世紀ヨーロッパの大地を徘徊するその目的は、可能な限り自らの身代わりを探すことである。同時に、その陰魂は死にゆく封建主義と専制主義からやって来たものであるがゆえに、その陰魂が向かう先は、封建主義と専制主義の屍ではなく、産声をあげたばかりの新しく生まれた民主主義制度と新しく生まれた自由主義経済形態である。だからこそ、この幽霊はこの新生児の瑞々しい肌の上に、封建主義と専制主義の母体からもたらされた膿と血で染めるだけでなく、生存と成長を勝ち取る過程を口実に、その多くの弱点と欠点を表現し、それによってその死刑を宣言するだけでなく、揺りかごの中で扼殺することさえ欲していた。
牽強付会で荒唐無稽な笑うべき比喩と憶測だと思われるかもしれないが、見当違いながらも結果的にはこの「幽霊」を暗に喩えることができた――それは、まさに解体しようとするヨーロッパ農業社会とまさに死にゆくヨーロッパ専制主義制度を代表し、根本からヨーロッパ民主革命およびその偉大な歴史的成果――新生民主主義政治制度と新生自由主義経済形態の歴史的本質――に反対し、そこから19世紀ヨーロッパの歴史発展に対する最大の反動と、中世以降のヨーロッパの封建に反対し、専制を打倒し、ヒューマニズムを建設し、民主自由を追求する歴史発展全体に対する徹底的な反動を築き上げた。ここに、マルクス主義は専制復辟を鼓吹する哲学に過ぎないことが証明された。この復辟の哲学は「人類の大同の追求」という美しい衣装に身をまとい、「革命の名義」を盗用しているに過ぎないのだ。
このため、マルクス主義の創始者が彼らの「革命哲学」をいかに複雑で深遠で「科学的」なものに粉飾しようとも、また、現代の善意のマルクス主義者たちがその中から何らかの「民主と進歩の思想」を掘り出そうとしようとも、すべては徒労で無意味である。なぜなら、強烈な諷刺の意味合いを持つものとして、「科学的」共産主義のもう一人の創始者である資本家のエンゲルスは、すでに早くから「もし我々の理論が一たびこの世界のいくつかの封建的で遅れた国家と地域で実現したならば、我々の理論は泣くに泣けず、笑うに笑えない漫画に変わってしまうことだろう」[18]と述べているからである。さらに強烈な諷刺の意味合いがあるのは、実際上、マルクス主義はただ世界の封建的で遅れた農業国家においてのみ「新興プロレタリア」すなわち伝統的農民の造反を鼓舞して革命を成功させ、専制制度に復帰することができたという歴史事実は、マルクス主義哲学の専制復辟の本質が暴露されたのみならず、エンゲルスが指摘したあの泣くにも泣けず笑うにも笑えない漫画が、東欧と東アジアの人民の血と涙が流された凄惨な歴史画へと本当に変わってしまったことである。
今日、国際共産主義運動がすでに自壊し、無数の人民の血と涙によってつづられた「漫画」を我々は識別できるようになったが、そのために東欧と東アジアの人民はいったいどれだけの高い代価を払ったことだろうか。
ここで再び、マルクスが青年時代に書いたあの「壮大な志」の詩歌を読み返し、改めて、青年時代から「上帝のように」、そして「世界の広大なものを打ち壊し」、また「この宇宙の廃墟の上をそぞろ歩きし」、さらには「私の一言一句の」「すべてが行動であり」、「この俗世に生きる造物主」である「偉大なプロレタリア革命の導師」になろうとしていたということに対峙するとき、もし我々が今一度、無数の人民の血と涙によってつづられた「漫画」を凝視するならば、この「科学的共産主義」の創始者に対して、果たしてどのような感覚と認識を持つだろうか?
[1] (英)デイビッド・マクレラン『マルクス主義以前のマルクス』(日本語訳は西牟田久雄訳『マルクス主義以前のマルクス』、勁草書房、1972年1月)
[2] 同前
[3] (ドイツ) エドゥアルト・ガンス『人物と事件の回顧』1936年、ベルリン版。
[4] マルクス『ゴータ綱領批判』
[5] レーニン『国家と革命』
[6] (英)ラッセル『ヨーロッパ哲学史』
[7] 同上
[8] 空想的社会主義者ロバート・オーウェンが米国で実行した共産主義の新しいコミュニティの実験。完全に失敗して終わりを告げた。
[9] ラッセル『ヨーロッパ哲学史』からの引用の転載。
[10] 19世紀イギリスの過激主義哲学者ベンサムなどを指している。
[11] (英国)ジェームズ・ミル『1831年の手紙』
[12] マルクス『資本論』第1巻
[13] 「第一インターナショナル創立宣言」
[14] 同上
[15] ラッセル『ヨーロッパ哲学史』
[16] 「イエズス会」はかつてその反動的な宗教思想組織によって悪評高く、ルネサンス後にローマ教会によって解散させられた。しかし、ルイ18世のブルボン王朝が復辟するやいなや、その組織を回復し、思想統治を強化しようとした。
[17] 王徳昭『西洋通史』381-382頁
[18] 『マルクス・エンゲルス全集』第24巻、北京、人民出版社。