3.民主革命と専制復辟の繰り返される対決

 すでに革命と復辟の一般的な歴史的意味、特に民主革命と専制復辟の特殊な定義を明確に理解した後は、おのずから民主革命と専制復辟が互いに対抗する歴史関係をはっきりと見極めることができるだろう。なぜなら、民主革命の意図は専制制度を覆し、民主制度を建設する革命であり、その革命の具体的対象は、専制政権に代表される、旧専制制度を維持擁護しようと図る様々な専制勢力であるからだ。これに相反し、専制復辟とは様々な専制勢力による専制制度再建の試みを指す。

 幸いなことに、近現代世界が専制から民主へ移行する歴史過程は、民主革命の勃発がこの移行過程の政治上の重大な発端であることを証明したのみならず、その移行過程の主要な方式が民主革命であることを証明した。なぜなら、民主革命の勃発こそは専制統治を打倒する先駆けであり、民主制度の建設にあたっての功績第一であるからだ。また、民主革命はまさに、全世界が専制から民主へ移行する過程にいくつもの歴史的記念碑を残してきた。ゆえに、いかに困難な道であろうとも、近現代世界が専制から民主へと移行する過程、すなわち民主革命の排斥、否認、貶斥ならびにその不朽の歴史的功績を我々は遡及しなければならない。

 しかるに、不幸なことに、まさに民主革命がこの移行過程の重大な発端と主要な方式を突き動かしたがゆえに、必然的に種々様々な専制復辟勢力の歪曲、誹謗、さらには公然たる反撃あるいは形を変えた反対に遭遇しなければならなかった。して、ある一定の歴史的条件と歴史的時期においては、国内外の要因、政治経済の原因、伝統文化の影響から、専制勢力が勝利を収める事態にさえ至った。そのため、民主革命勃発後、専制勢力の度重なる逆襲とその成功があったとしても、民主革命の再度の勃発と最終的勝利を阻止することはできないとはいえ、革命と復辟の繰り返される対決の艱難の態勢はこのように形成されたのであって、民主と専制の繰り返される対決の苦痛の過程もまたこうして出現した。ゆえに、専制から民主への移行には、必然的に様々な艱難と曲折の歴史光景があらわれるのだ。

 

(1)対決の普遍性と反復性

 世界で最初のネーデルラント革命は、スペイン統治に反対する民族革命と相互に織りなされているが、1561年の革命発動から1609年のスペインによるオランダ独立承認、さらには三十年戦争終結後の1648年にヨーロッパが締結した「ウェストファリア条約」によってオランダ共和国が正式に承認されるまで、その間、革命と復辟の繰り返される対決の歴史は実に78年という長きにわたった。

 有名なイギリス民主革命は、1640年の勃発から1688年の名誉革命に至る成功まで、その48年にわたり、3度の革命と復辟の対決を経験した。1647年12月、スコットランドとイングランドの長老派は密かに英国王チャールズ1世の復辟を謀り、第二次国内戦争を誘発した。復辟派がクロムウェルに敗れたため、この第一次復辟計画は未遂に終わった。1649年にチャールズ1世が処刑された後、スコットランドの王党派およびその勢力はチャールズ2世を国王に擁立しようとする復辟計画を企てたが、またもや1651年のクロムウェルによるスコットランド征服とこれに伴う英国への併合により、二度目の復辟も果たされなかった。第三次は、クロムウェルの死後2年を経た1660年4月、王党派のジョージ・マンクとチャールズ2世が交渉に成功して「ブレダ宣言」を発布し、チャールズ2世は英国国王となり、スチュアート朝はついに復辟を宣言した。復辟はチャールズ2世とジェームズ2世の28年の長きにわたる腐敗統治を経て、名誉革命にいたって打倒された。こうして、イギリスは王冠のもと、また革命に迫られながら、ようやくにして世に知られる新政体を誕生させ、ここから「君主立憲」から「虚君共和」への道を歩み出したのだ。孫中山先生がヨーロッパ各国の君主憲政を指して「革命の賜」と言われたのも、核心を衝いた言葉であるといえよう。

 民主革命勃発後に、最も多く革命と復辟の対決を繰り返したのは、フランスである。フランスの民主革命は1789年7月14日のパリ民衆によるバスティーユ牢獄襲撃に始まり、1875年にフランス国民がフランス共和国の国統を継承し、フランス第一共和国憲法を承認し、共和国体を確立し、フランス第三共和国を成立させるまで、前後86年にわたり、革命と復辟の反復対決が不断に続き、異常なほどの複雑性と激烈性を呈した。もし、ロベスピエールの死が立憲派を象徴しているのだとすれば、ナポレオンのワーテルローの敗戦はブルボン王朝の復辟成功をもたらした。1830年の革命は君主専制制度の全面的復辟を図ったブルボン王朝を葬ったとはいえ、ルイ・フィリップによって建てられた七月王政は依然として専制復辟を18年という長きにわたって強行した。1848年の革命は復辟した七月王政に勝利し、フランス第二共和国を建てたが、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは民主共和の中において、専制復辟の役を「再演」し、ついにフランス「第二共和国」の名をフランス「第二帝国」に改め、彼自身もこれにより大統領から皇帝に変わった。もしフランスが戦争に惨敗し、ルイ・ナポレオンの帝国が一朝にして滅亡しなかったならば、第三共和国の建設、特にフランス民主制度の最終的な承認と確立は、なおもいくつもの波乱と曲折を経たかもしれない。

 ネーデルラント、イギリス、フランスばかりではない。民主革命が勃発し、専制王朝を打倒し、民主政体を建設した国ならば、いずれもがそうである。1810年に勃発したスペイン民主革命は有名な「1812年憲法」[1]を誕生させた。その始まりもまた、フランスの侵略に反対する民族革命と一体となっているが、ヨーロッパにおけるナポレオンの失敗とヨーロッパの国際専制勢力の粗暴なる干渉により、革命勢力と王室の復辟勢力は五度の反復対決を経ること、実に64年の長きにわたった。1874年に至り、ブルボン家のアルフォンソ12世によって二大政党の議会制度が実行され、君主立憲国家が建設されてはじめて終わりを告げた。

 スペイン革命とスペイン1812年憲法の影響を深く受けたポルトガルでは、1820年に革命が勃発した後、国王ジョアンの子であるドン・ペドロに代表される専制勢力によって三度の復辟が発動された。一敗二勝であったとはいえ、その勝利は短命であり、ポルトガル民主革命は革命と復辟の度重なる対決の痛ましい歴史を残した。19世紀ヨーロッパのオランダ、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどの主要な国はかくのごとき経過をたどったわけだが、20世紀のドイツとロシア―東南アジアの遅れた国々も含め―は、新しい歴史条件のもとで、革命と復辟のさらに苦痛と艱難の加わった対決の過程を展開した。ドイツは1871年に遅れたやっと統一されたドイツ帝国を建設し、一時的に威信を発揮したが、第一次世界大戦中の失敗により、第二帝国の速やかな敗亡とドイツ民主派の容易な成功をもたらした。1919年、ドイツ社会民主党のエーベルト派によって建設されたワイマール共和国は、瞬く間に専制勢力の狂ったような反撃を招来した。ドイツに帝国を復辟することを目的とするカップ暴動は、民主勢力によって速やかに倒されたが[2]、ヒトラーに代表される新型の専制復辟勢力は、表向きには帝国再建や君主専制への復帰を叫ぶことなく、国家社会主義の看板のもとに中央集権の強化を要求し、ヨーロッパ最大の独裁者として台頭していった。そして、実質的にドイツは全体主義統治の専制帝国、すなわち「第三帝国」を完全に復辟させてしまった。ここから、帝国興亡の歴史の悲喜劇の一幕が再び演じられることになった。

 これと対をなすのが、ヒトラーがドイツで国家社会主義の看板を掲げ、専制復辟へ邁進する前に、レーニンがヨーロッパで最も遅れたロシアにおいて、二月民主革命によってツァーリを打倒した後に、「革命の名義をもって」(レーニンの言葉)二月民主革命の成果を覆し、ロシア専制制度を再建したことである。二月革命に対する十月革命の反逆的本質とは、「革命の名義をもって」民主革命に逆襲し、専制復辟の成功を果たすことであり、ここから70年あまりの専制復辟の巨大な歴史悲劇が演じられることとなった。今日、ソ連はすでに1991年に一朝にして崩壊したが、一部の「人なお在り、心いまだ死せず」のロシア共産党員の、復辟しようとする願望は決して死に絶えてはいない[3]

 辛亥革命によって勝利の発端が開かれた中国民主革命にいたっては、満洲人の清専制王朝を倒し、二千年あまりの君主専制制度を一挙に終結させた後に遭遇した対決の過程、特にその種々様々な専制復辟が中国人民にもたらした巨大な災難、なかんずく空前の歴史災禍は、まさしく本書が深く探求し論証しようとしているところの主題である。一言もってこれを蔽えば、この400年来、世界が専制から民主へと艱難の移行を開始して以後、民主革命が勃発した国であれば例外なく、いずれもが革命と復辟の反復対決という歴史過程を経験してきたという言うことができる。また、この普遍的な歴史過程あるいは民主革命の主体的過程を経てはじめて、民主革命は最終的に成功を得ることができるのであり、民主制度は最終的な承認と確立を得ることができるのだ。

 

(2)対決の艱難性

 第一に、打倒された専制統治集団ならびにこれに付属する王室、貴族、教会、僧侶およびすべての特権享受者あるいは既得利益集団は、彼らの専制政治権力と貴族特権を失ったことを潔しとしないため、絶えず消えた火を再燃させ、捲土重来を図ろうとする。これこそは、革命と復辟が対決を繰り返す本質であり、また革命が復辟に打ち勝つことが困難であることの根本原因である。復辟するため、英国王チャールズ1世は敵を友とし、1641年のスコットランド反乱鎮圧が収束する前に、1647年には再びスコットランド長老派と結んで密かに王位復辟を謀り、このために第二次国内戦争を誘発した。同様に、復辟するためにフランス王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、および大小の王侯貴族は、ヨーロッパ専制勢力が共同でフランス革命の包囲討伐を図ろうとした際に、民族の大義を顧みることなく、投書による密告や陰謀の献策を行い、助けを求めて泣き叫び、公然と国に反して敵に投降した。王妃にいたっては、フランス軍の作戦計画をプロシア・オーストリア連合軍に密かに漏らすことで、王権の復帰に取って換えようとした。ゆえに、次のように言うことができよう、1561年にネーデルラントで民主革命が勃発してから今日まで400年余りの間、全世界で民主革命が勃発した国の中で、旧王朝、旧王権、旧貴族、旧特権享受者のたび重なる復辟の試みが出現しなかった国は一つもない、と。1991年に旧ソ連と東欧のいくつかの共産国家が自壊して以後も、復辟を図ろうとする頑迷な共産勢力の欲望は、今も彼らを突き動かす根本原因としてうごめいている。

 第二は、いまだ解体していない、もしくはまさに解体しようとしている伝統農業社会の、自らの専制政治形式の頑なな護持と、自由経済の発生と発展との強固な対抗から来るものである。なぜなら、伝統的家長制と小生産は、専制政治が打ち立てられる最も堅固な社会基礎であるが、自由経済の発生と発展はまたこの基礎を解体する最も重要な原因となるからだ。自由主義的な生産経営方式が専制制度、権力経済およびその基礎に与える影響は言うまでもない。伝統農業社会が全体的な挑戦を受ける時、そこには人の心を揺り動かす民主自由の信念が伴うと同時に、工業革命によってもたらされた新鮮な歴史の息吹が伴う。だからこそ、それは単に思想政治領域におけるあらゆる意識形態に対する徹底的な大進攻であるばかりでなく、伝統生産方式ないし生活方式に対する徹底的な大破壊にほかならず、必ずや伝統農業社会全体、特に農民の反対、そして反抗に遭遇する。16世紀と17世紀中期にネーデルラント、イングランドにおいて早くから民主革命が勃発した根本理由は、文芸復興、思想革新、宗教改革の時代が到来した後に、航海業の発展と囲い込み運動の進行により、伝統農業社会が解体し始めたからであり、このことが大型手工業の迅速な発展を促すこととなった。これに反し、フランス民主革命期のヴァンデ地方の公然たる農民反乱にせよ、スペイン民主革命期のカルロス王子復辟運動に対する農民の広範な支持にせよ、すべては伝統農業社会と宗法制農村がいまだ最終的な解体へと向かっていなかったことによるものである。ドイツワイマール共和国の成立後、率先して反乱し、公然と第二帝政の復辟を要求したカップ暴動は、実に封建的で遅れた東プロイセンにおいて勃発した。ロシアの二月民主革命はレーニンの共産革命によって覆されるところとなり、中国の辛亥革命後には種々様々な専制復辟が出現した。特筆すべきは、共産革命の名義と農民造反の方式をもって専制復辟を実現しようとする痛ましい状態が出現したことである。東アジアのいくつかのいわゆる共産国家が、王朝を改め政権を換えはしたが、制度の変更には至らないという現実の根本は、専制政治の基礎をなす伝統農業社会がいまだ、あるいはようやく解体に向かい始めたばかりだということに起因するのに他ならない。

 第三に、伝統思想文化体系の中の専制的思想文化観念が世の人々の道徳心に与える根強い影響であり、新思想・新観念に対するその巨大な反抗力から来るものである。明確にしておかなければならないのは、1つの果てしなく長い旧社会と旧制度の精神伝統は、この旧社会および旧制度自身の物質的形式と共に墓場に葬り去られることは断じてないといことである。1回の革命は1つの王朝を倒すことはできるが、1回の革命によって様々な専制の思想文化観念を同時に墓場に葬ることは決してできない。中国内外の民主革命の歴史事実がすでに早くから証明しているように、およそ専制の思想文化と観念は、革命以前に挑戦や批判を受けることがないならば、また民主共和の思想理念によって打ち負かされることがないならば、革命の発動を困難にさせるばかりでなく、革命以後に復辟が起きる可能性をいよいよ大きくし、またその期間もいよいよ長くする。1640年の英国民主革命は、西洋では清教徒革命と呼ばれるが、英国国教に対する清教徒の反対であったからこそ、革命の契機が到来することを促すことができた。これに反し、当時の英国においては、まさに清教徒が真に民主共和理念を宣揚する思想解放運動を切り開いていく経験も能力もなかったがために、英国では革命勃発後に思想の混乱が生じたのであり、最終的にスチュアート朝の長期復辟を招き、名誉革命でさえ王冠の下において成功を獲得するにとどまったのだ。これが、英国の民主政治と自由経済の理念と理念が、革命勃発後に、また革命と復辟が交互にあらわれて対決する歴史的混乱の中で、しだいに形成されていった原因である。フランスにおいては、1789年に民主革命が勃発する以前にすでに100年近くの思想啓蒙運動があった。この思想啓蒙運動が「自由」「平等」「博愛」という思想の旗幟を公然と掲げ、共和主義の建国原則を公に示したばかりでなく、政治・経済・思想・文化・法制などの多くの方面において新しい思想と理念を生み出したからこそ、フランス人民は86年の長きにわたる革命と復辟の反復対決の中においても、共和を追求し専制に反対する民主革命精神を一貫して堅持し続けることができた。だからこそ、フランス革命の理念、理論、実践はあまねく世界に伝わり、19世紀ヨーロッパの歴史発展の指標となることができたのだ。

 また、民主革命の勃発に対して十分な思想的準備ができた国においても、同じように専制思想文化からの反撃が存在する。いくつかの伝統思想文化観念が「古い帽子を翻して」生み出した、いわゆる新しい思想と新しい文化もまた、真の新しい思想と新しい文化に対して、様相を変えて反抗することがある。そのことが誰の目にも明らかなのは、ロシアにおいて国粋派によって発見された「ロシア農民固有の共産主義の本能」であり、これがロシア「新興プロレタリアート」がマルクス主義の共産革命理論を受け入れるにあたっての社会的基礎を打ち立てた。さらには、レーニンが共産革命の名義をもって二月民主革命に対して実行した公然たる背反、新ツァーリ専制制度の再建に対して、直接的な思想的要求を満たした。ドイツにおいては、1871年のビスマルクによる武力統一の実現とドイツ第二帝国の興起こそが、ニーチェ、ショーペンハウアーの「権力、意志、超人哲学」の機運を醸成した。これに反し、まさに「権力・意志と超人」思想を提唱するこの典型的独裁主義哲学こそが、ヒトラーがワイマール共和国を倒し、国家社会主義の看板を掲げて専制的第三帝国を再建するにあたっての、専制復辟の明確な思想的な前提をもたらした。

 近現代ヨーロッパの思想文化上において、革命と復辟の反復対決の歩みがあらわれたものとしては、他にロマン運動がある。このロマン運動はその波の起伏があり、長きにわたって衰えることがなかったが、変革時代のヨーロッパ社会の一つの思想文化のあらわれであり、積極的な面と消極的な面の両方がある。積極面について言えば、ロマン運動は個性を尊重し、旧伝統と旧倫理の制約に反対し、時代遅れ・決まり文句・倒れた死体の社会生活に安住することはない。ゆえに、それが個性解放のために専制圧迫に反対するときには、歴史発展の要求に順応し、民主革命の思想文化領域の革命の一翼をなしていた。逆に消極面について言えば、それは金銭を軽視し、俗事を嫌悪し、甚だしきにいたっては「資本主義」によってもたらされた現代文明の発展を拒否し、そこから逃避しようとする。そして、田園に返り、野蛮に戻ることを叫ぶ。このように、新時代がまさに形成しようとしている進歩的社会制度に反対するとき、それは時代の要求とは正反対の方向へと完全に向かっており、専制復辟が要求するロマンの「こだま」となり下がる。19世紀後期のあの典型的な文学ロマン運動は、少なからずこのような色彩を帯びている。ロシア農民の精神上の代表であり、偉大な作家であるトルストイ伯爵でさえ、「洪水のごとき猛獣」のような資本主義に直面したときには、驚きのあまり「良き地主の荘園」に回帰してしまった。また、「刀光火色が衰微する中にあって、すでに次の世紀の曙光を見出した」(すなわち、共産主義の曙光)、あの中国の文豪である魯迅先生も、同じように資本主義を緑の顔と剥き出しの歯の野獣とみなしてこれに反対している。これらはいずれも、彼ら伝統型の知識人がその原型に立ち返っただけに過ぎない。

 第四は、国際専制勢力と自国の利害を考えるいくつかの国による、他国の革命に対する粗暴なる干渉、そして連合した包囲討伐から来るものである。1789年のフランス革命勃発から1815年のナポレオンの敗戦に至るまで、ヨーロッパ各国の反動君主は「民主」英国とともに7度の「反フランス同盟」を連合して結び、共同でフランス革命に対峙し、連合してナポレオンを打ち破り、ルイ16世の弟であるルイ18世を迎えて、フランスにおいて王政復辟を実現した。ナポレオンの失敗後、ロシア、プロイセン、オーストリア三国の反動君主は、ヨーロッパ革命への抵抗、反対、鎮圧を企てるために、またも英国の支持のもと、パリにおいて三国の「神聖同盟」を結成した。「神聖同盟」は1821年に派兵してイタリア革命を潰し、1822年にはスペインの2度の民主革命に粗暴に干渉し、フェルナンド7世が再び復辟を果たすことを支持した。ネーデルラントにおける民主革命勃発以来の400年余り、各専制強国、各国の反動君主は、対内的に専制を厳格に実行することで本国での革命の勃発を根絶させるのみならず、対外的に一再ならず他国の革命に粗暴に干渉し、甚だしきに至っては共同で失脚した君主を支援し、その復辟を求めてきたと言うべきであろう。これは怪しむべきことではないが、怪しむべきは、いくつかのすでに世界強国となった民主国家すなわち「民主列強」たちである。彼らは対内的には民主政治を展開したが、対外的には強権政策を推進し、本国の利害のためならば専制列強と手を組み、他国の革命に干渉し包囲討伐すること、さらには一再ならず他国の専制復辟勢力を支援し、他国の革命勢力を包囲討伐することもためらわなかった。これは、彼らが「その容貌を新しく」したが、いまだ「その心を新しく」していないことから自ずと導き出されるものであり、彼らが終始、国家利益を民主理念の上に置いていることの悪しき表れである。そして、ここ数百年来、いくつかの国家の民主発展が困難を極めているのは、往々にしてこのことを関連している。中国辛亥革命後の民主革命と専制復辟との対決の反復と艱難もまた、ここに淵源がある。今日の民主の台湾が国際的に遭遇しているあらゆる不公平な待遇もまた、同じようにこのことを密接不可分である。

 

(3)対決の複雑性

 第一は、復辟の手段の複雑さである。種々様々な専制勢力は、自らに民主革命を倒し、専制復辟を実現する力と条件が備わっている時には、おのずから王然たる手段を使って復辟を求めようとする。英国のスチュアート朝とフランスのブルボン朝の公然たる復辟、さらには中国辛亥革命後の袁世凱の公然たる帝制復辟がそうである。だが、種々様々な専制勢力の力が足りず、条件が不十分であり、専制制度と専制統治に対する人民の普遍的な嫌悪があり、公然と専制復辟を推し進めることがはばかられる時には、彼らは完全に非公然たる手段を使って復辟を実行しようとする。その矛盾の最たるものは「偽共和による復辟」であり、王位や王朝の名を喜んで失う代わりに、専制復辟の実を奪い取るものである。フランス革命期のルイ・ボナパルトの偽第二共和国から第二帝国への移行期、北洋軍閥が共和の旗印のもとに専制復辟へと邁進した歴史事実がその典型的な例証である。そして、「偽共和による復辟」でさえ人々の耳目を塞ぐことができない時には、いっそのこと革命の旗印を掲げて専制復辟の欲望を満たそうとする。ある者は民族革命の旗印を掲げて民族革命をもって民主革命を圧迫し、ある者は宗教革命の旗印を掲げて教権専制をもって王権専制に取って代わり、ある者はいっそのこと農民革命の旗印を掲げて民主革命に反対し、民主政権に反抗し、専制制度に復帰しようとする。最も流行し、また最も欺く力を備えていたのが、共産主義革命の旗印を掲げて民主革命を打倒し、専制制度を復辟し、全体主義政治を打ち立てるやり方である。

 第二は、対決の状態の複雑さである。革命が復辟に打ち勝つにせよ、復辟が革命を打ち倒すにせよ、その間、いずれにしも極めて複雑なその対決の状態が出現するものである。すでに述べたように、復辟の手段の複雑さは、おのずから対決状態の複雑を形成する基礎を打ち立てる。さらに、政治に対する様々な政治勢力の異なる要求もまた、同じように対決状態の異常な複雑性を構成する。革命と復辟の反復対決の歩みの中には、確固たる民主の要求と頑迷な復辟の願望が存在するのみならず、異なるレベルの革命の要求と異なるレベルの復辟の目標も必ず存在している。それはたとえば、専制に反対するとともに王権を維持しようとする者、形式は共和だが内容は専制である者、あるいは形式は専制だが内容は共和である者、さらには「君の中に我あり、我の中に君あり」という者のごとくである。もしこれにさらに、様々な思潮から巻き起こる無政府の要求や国家主義の呼び声、ならびに無産階級革命の叫び声などの挟雑物も加えるならば、その対決状態がより一層複雑さを増すことは容易に想像できる。英国の名誉革命後に出現した「君主立憲」という新政体、ナポレオンが帝制復辟を借りて強化しようとした新秩序、フランス「第二共和国」の共和でもあり独裁でもあるという性質、ロシア二月民主革命後の2つの異なる性質の政権が併存した局面、中国辛亥革命後の大分裂の状況、そして北伐の成功後、国家統一の局面のもとにおける様々な叛乱造反の横行。これらはすべて複雑な対決状態の表れにほかならない。

 第三は、異なる性質の革命による相互作用である。民主革命の勃発は往々にして歴史的な契機を必要とする。たとえば、スペイン統治に反対するネーデルラントの民族革命が民主革命の勃発を引き起こした。これに反し、スペインの民主革命はフランスの統治に反抗する民族解放運動を推進した。だが、まさに様々な社会矛盾、民族矛盾、人種矛盾こそが革命と復辟の度重なる複雑な対決の状態を導いたのである。中国では、辛亥革命前後の民主勢力は専制統治を倒し、専制復辟との戦いに勝利するために、専制列強と民主列強に反対する民族革命を呼び掛け、発動しなければならなかった。なぜなら、専制列強と民主列強は、中国において専ら専制勢力を支援し、中国民主革命に反対していたからだ。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカにおいては、民族革命と人種革命が、また往々にして人民の民主革命の要求に取って代わり、フィリピンのマルコスやインドネシアのスハルトの専制統治などのように、民族の独立、人種の解放を果たせたとしても、専制統治の泥沼の陥る結果となった。イランにおいては、人民が教権を借りて王権に反対する民主革命を発動したが、かえってさらに専制的な教権専制統治に陥った。もちろん、南アフリカの民族、人種と民主革命との交錯は、最終的には栄光ある勝利の局面を勝ち取ることができた。このように、異なる性質の革命の相互作用は、民主革命の過程を推進する可能性を秘めている。しかしながら、ほとんどの状況下において、それは民主革命と専制復辟の対立状態の複雑化を促進することがあり、これがために、民主革命の勝利に相当大きな迷惑と困難をつくりだしてきた。

 

(4)対決の激烈性

 まず、革命と復辟の対決が往々にして暴力の形式をとることが、激烈性の具体的なあらわれである。暴力形式の第一種は、対決の過程における暴力の衝突である。第二種は、国内戦争あるいは国際戦争といった形であらわれる。1640年から1660年に至る、英国の民主勢力と専制勢力との反復対決は、早くも第一および第二次国内戦争にあらわれた。1792年、フランスの民主派は国王と王妃が国に背いたために彼らを断頭台に送った後、ヴァンデ地方の農民が巻き起こした全国60郡の農民によるパリ民主政権に対する反乱は、あともう一歩で革命のフランスを復辟の廃墟へと変えてしまうところであった。レーニンが共産革命の名義のもと、二月民主革命を倒し、専制制度を再建し、「外国武力干渉」の反対することを口実にロシア国内において引き起こした7年の残酷な内戦に至っては、どれほど多くの無辜の民と知識人たちが血の海の中へ葬り去られたか知れない。中国では、辛亥革命後、革命と復辟の反復対決によって導かれた内戦と混戦は、さらに長期にわたって国家と人民を混戦と分裂の苦痛の只中に置いた。

 次に、革命と復辟との対決によって引き起こされた国際戦争について言えば、ヨーロッパの7度にわたる「反フランス同盟」と「神聖同盟」、そして各専制列強と民主列強の他国の革命に対する武力干渉を除いて、二度の世界に限るならば、世界的な範囲における民主革命と専制復辟の広範な対決は、言葉では名状しがたいほどの残酷な境地に至っている。新興の専制的に統一されたドイツとヨーロッパの老大帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国によってヨーロッパにおいて引き起こされた第一次大戦の部分的な性質と目的は、すでに民主進歩の道を歩み出したヨーロッパにおいて、専制の新秩序を再建することであった。ファシズムドイツとファシズム日本という2つの強大な国際専制勢力が共に手を携えて発動した第二次世界大戦の部分的な性質と目的もまた、同じように全世界の民主進歩に対する狂ったような逆襲であった。第二次大戦以後、東西の専制陣営と民主陣営が迅速に明確化されるにしたがってもたらされた東西対抗にもまた、やはり無数の激烈な対決があり、「冷戦と殺意」の中に隠されている。そして、多くの国は専制から民主へと向かう移行過程の主要なプロセスにおいて、革命と復辟の反復対決によってもたらされた数々の犠牲もまた、筆舌に尽くしがたい。

 

(5)近現代の専制復辟に共通する歴史的特徴

①専制復辟を実現する様々な形式と方法

 近現代世界が専制から民主へと向かう歴史過程において、種々様々な専制勢力が公然と捲土重来を果たすことが難しい時に、専制復辟を実現するその形式と方法が4つある。1つ目は前述したように、共和の名義のもとに専制権力の復辟を実現する、あるいは専制復辟統治を推進するものである。すなわち、孫中山先生が言うところの「偽共和の名義をもって専制の実を行う」ものである。

 2つ目は偽宗教の名義あるいは教権の支えのもとに専制復辟統治を回復させるものである。これは中世ヨーロッパにおいてかつてしばしば見られた歴史現象である――なぜなら、教権は封建専制権力の最高の象徴であり精神的な皇冠であったからだ。現代においても、70年代にイランが教権をもって王権を倒した「革命」とその結果は、十分にその可能性を説明している。

 3つ目は近現代で最も危険であり、最も惑わす力を備えていた専制復辟の形式と方法、すなわち「革命」の名義をもって民主革命に反対するものである。特筆すべきは、共産革命の旗印と「専制統治反対」の名義のもとに、いわゆる「無産階級革命」あるいは伝統型の農民造反を発動することで、専制制度全体の復辟という目的に達成、あるいは実質的に達成したことである。この種の復辟の形式と方法は、世界の遅れた国と地域、すなわち東ヨーロッパや東アジアのような伝統農業社会がいまだ解体していない地域と国において、相当な成功を収めてきた。

 4つ目は近現代の民主革命の勝利、民主政治の勃興と民主制度の建設によってもたらされた「政党政治」であり、この政治形式の広範な興起と使用である。それは民主勢力を団結させ、専制統治に反対し、民主制度を建設する一種の政治形式であり、それ相応の先進性をもっている。しかし、それは一種の流行の政治形式でもあり、世界の多くの国、甚だしきに至っては専制国家と復辟政権が表面的これを踏襲し、使用する場合もある。そのため、現代政党の形式を利用して復辟をなす政治組織の形式と、全体主義統治を実現する現代の専制勢力は、近現代のいくつかの専制政権、特に現代共産専制復辟政権の一大流行を形成した。こうした政治形式は現代のあらゆる共産国家に受容され、さらには世界のあらゆる共産国家によって、党権力を利用して専制全体主義の最高の形式へと発展を遂げた。

 

②専制復辟統治を実行する様々な手段

 いかなる専制復辟政権も、専制制度の維持、修復、そして再建を果たし、専制統治を回復させようとするため、彼らが専制復辟統治を実行する手段には多くの共通点がある。

 1つ目は、専制権力の強化である。民主革命成功の端緒は、専制国体が解体され、専制政権が打倒されることを意味する。このため、専制勢力は一たび捲土重来を果たしたなら、必ずや専制国体の再建と専制権力の回復および強化を行うことで、復辟を実行し、それを盤石のものとする根本的な大計となす。歴史事実が示すように、専制権力の回復と強化を図ろうとしない近現代の各国の専制復辟政権はない。特に、革命の名義のもとに専制復辟を実現したソヴィエトロシア、中国大陸などの共産国家による専制権力の高度な強化については、早くからすでに世に知られている通りである。

 2つ目は、等級制度の復活である。民主革命の要求の1つは、専制等級制度を打破し、平等な民主社会秩序を築くことである。これに反し、専制制度の根本的な社会秩序の基礎は、専制等級制度である。冷酷で厳格な等級区分は専制統治の魂であり、復辟王朝あるいは復辟によって打ち立てられた新しい専制政権は、必ずや等級制度の復活と再建を果たし、それによって専制復辟政体の「権力構造」の絶対的安定性を保証しようとする。復辟した君主王朝がそうであるだけでなく、革命という名義によって打ち立てられた真新しい復辟政権もまた、そのいずれもが改めて等級を区分し、等級制度を築き上げることを綱領としないものはない。中国の伝統的農民革命かくのごとし、ソヴィエトロシアの共産専制制度もまたかくのごとしであり、中国共産党の専制等級制度はすでに世界史上の専制等級制度の集大成となった。

 3つ目は、鎮圧を厳格に実施する手段である。専制復辟統治は打倒された専制統治の再生といえるものだが、実際には専制制度の滅びる前の束の間の残光である(序論第2章第2節を参照)。そのため、専制復辟統治者は「革命」という二字を想起するだけで、「四六時中頭を離れず、夢にもうなされる」ことになる。これが第一である。第二に、専制復辟統治は民主革命の勃発後、専制勢力の逆襲が成功したことで回復あるいは再建された専制統治であるため、捲土重来した専制統治に対する人民の心から服従を獲得することは、決して易しいことではない。この時の人民は、もはやかつての人民ではない。彼らはすでに民主革命の洗礼を受けているのだ。第三に、復辟したのは旧君主と旧王朝ではなく、その他の名義、甚だしきは革命の名義によって復辟を実現した専制勢力である。それらは民主革命あるいは社会動乱の機に乗じて、民主革命の成果を押し潰し、さらには「革命」によって「革命」を押し潰しさえした。ゆえに、彼らは「革命が勃発した理由およびそれがいかに勃発したか」「統治者が打倒された理由およびそれがいかに打倒されたか」の道理について精通しているばかりでなく、その事情を知る者として、どうすれば彼らの専制復辟政権を守ることができるかについても、ことさらにより理解している。80年代開始早々、中共と中共指導者の陳雲が頑なに「出版法」の制定に反対した言動が、このことの明らかな証拠である(下巻第7章第3節を参照)。まさに上述の様々な原因のために、いかなる専制復辟政権も鎮圧手段を厳格に実施しないわけにはいかない。これこそが、彼らが専制復辟を守るための最も重要な手段に他ならない。ゆえに、一たび彼らが権力と命を守るため、すなわち復辟を守るために行動を起こした時には、復辟ではない本家本元の専制統治とは比べものにならないほどに残酷である。

 4つ目は思想統治の強化である。民主革命に遭遇し、民主革命によって打倒されたあらゆる専制政体がこの深い教訓を持っている。この教訓とは、すべての民主革命の発生は、新思想の出現と蔓延、そして旧思想の消沈と崩壊がその勃発の先駆けをなすということである。英国民主革命は新教思想の伝播と大きな関係があり、フランス民主革命は「平等、博愛、自由」の民主・民権思想の啓蒙と伝播とより相関関係が深い。中国の辛亥革命もまた民主共和思想に他ならず――ヨーロッパの風とアメリカの雨によって影響を受けた歴史産物である。そのため、旧思想を保守し、新思想を根こそぎ取り除くために、すでに築かれた、あるいはまさに築かれようとしている真新しい民主思想体系を攻撃し、粉砕することもまた、あらゆる専制復辟政権が最も手を焼くことであり、最も重視していることでもある。革命の再発を未然に防ぐため、根本から革命思想の再生と蔓延を途絶させ、革命を引き起こそうとするあらゆる新思想・新文化を徹底的に殲滅することもまた、専制復辟政権にとって本家本元の専制王朝よりもさらに重視する問題であり、特に重視する問題である。ルイ18世は復辟した後、ただちに悪名高い「聖イエズス会」を回復させたが、その意図は思想統治の強化にあった。70年代のイランが革命後に宗教思想統治を強化した事実は、思想統治が宗教復辟政権にとって最も重要事であることをすでに明らかにしている。ソヴィエトロシアによって牽引されたすべての大小の共産専制復辟国家は、いずれもが「マルクス・レーニン主義だけを尊び、他のすべては抹殺する」ことを手段として、人民のあらゆる思想と言論の自由を剥奪した。さらには、一再ならず狂ったように思想罪をでっちあげ、思想罪を重罪と定め、広く極刑に処し、「重い法律に心を震わせる」ことで、人民に思考の自由と能力を喪失するよう強いたのだ。このことは疑いの余地なく、革命が復辟に打ち勝つにあたり、すなわち民主が専制に打ち勝つ対決の道のりに特別な艱難性をもたらした。

 一言もってこれを蔽えば、まさに400年にわたって世界が専制から民主へと向かう過程こそが、革命と復辟――民主と専制の反復対決の艱難の過程をもたらしたのだ。同様に、まさにこの歩みが表してきた普遍性、反復性、艱難性、複雑性、激烈性こそが、各国の民主革命の歩みの歴史の共通性を明確に示している。



[1] スペイン民主革命期に制定された自由主義憲法で、国家の最高権力は国民に属し、人民は普通選挙権を有すること、君主立憲ならびに一院制議会制度を実行し、王権を厳格に制限することなどが宣言されている。

[2] 1919年のワイマール共和国建設後、王党派勢力のヴォルフガング・カップは東プロイセンの地方長官の身分をもって、協約国がドイツの2つの旅団を解散させたことに乗じて、2920年3月13日に反動将官と結託して反乱を発動し、第二帝国の回復を目論んだが、すぐに敗亡した。

[3] 1996年5月、ロシア大統領選挙において、かつてのロシア共産党員はジュガーノフ候補を擁護し、ソ連の復辟を公然と宣言した。ニューヨークに亡命していたかつてのソ連共産党員は、ソ連共産党への加入を呼びかけ、いたるところに「まもなく冷戦がやってくる」というスローガンを貼り出した。勢いは他を凌いだとはいえ、最後は敗北した。だが、ロシア共産党の復辟の危険性は依然として存在している。

 

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