4.民主革命の歴史範疇

(1)時間について論ず

 革命は1つの普遍的な歴史変革の進行過程であり、民主革命は決して単なる歴史事件あるいは1回限りの歴史事変という意義を有するだけでなく、間違いなくそこには始まりと終わりがあり、プロセスがある。パリ人民がバスティーユ牢獄を襲撃したことや辛亥革命が満洲人の清王朝を倒したことなどは、フランス民主革命と中国民主革命の勝利の発端に過ぎない。

 同時に、民主革命の勃発後に、革命と復辟の反復対決というこのような普遍的で艱難に満ちた複雑で激烈な過程がなお存在するからには、各国の民主革命はただこのような重要な「主体的道程」を経験することによってのみ、最後の成功すなわち専制に対する民主の最終的勝利に向かうことができる――その指標は民主制度の確認と確立である。そのため、我々は民主革命の勃発から革命の反復対決、さらには民主制度の確認と確立までを民主革命の全過程すなわち全範疇であるとみなすべきである。それによって、民主革命の歴史範疇に対する科学的な定義が生まれる。こうすることで初めて、我々は世界各国の民主革命の始まりと終わり、とりわけその複雑な道程に対して、1つの明確で明晰な認識をすることができるのであり、革命と復辟の反復対決の状態にある国と民族をして、段階性のある専制復辟を民主革命がすでに失敗した指標とすることを回避させ、民主革命は必ず最終的には成功するのだという信念を樹立せしめることができる。なぜなら、英国民主革命はスチュアート朝の復辟によって失敗に向かったのではなく、フランス民主革命もまたブルボン朝の復辟によって最終的勝利を獲得できなかったわけではないからだ。ヒトラーは国家社会主義の看板を掲げて復辟の熱情を煽り立てたが、第三帝国が短命に終わるという必然を救うことはできなかった。ソヴィエトロシアと中共は共産革命の名義のもと、民主革命に反撃し民主政体を転覆させることを成功させたが、その一方はすでに自ら崩壊し、他方は政治改革の決心を下すことをためらっており、必然的に滅亡の運命に直面していることは疑いもなく明らかである。二月革命の勝利を始まりとするロシア民主革命と辛亥革命を勝利の発端とする中国民主革命は、必ずや最終的な成功への歴史的道のりを歩んでいくはずである。

 

 

(2)内容について論ず

 政治革命の領域における民主革命の要旨とは、専制の政治制度を倒し、民主と法制の新しい社会制度を打ち立て、それによって民主政治理念の貫徹と事項を確保することである。ゆえに、革命と復辟の反復対決は実質的、本質的に民主新制度の樹立とそれに対する反対との対決に他ならない。このため、この新制度の樹立のために奮闘し、最終的にこの新制度を確認し、確立することによってのみ、民主革命の最後の成功とみなすことができる。

思想革命の領域においては、伝統思想文化体系の中の専制思想文化の要素を最終的に打ち負かすことができず、世の人々の心に対するその抑制と影響を弱めることができなければ、民主革命の発動に困難をもたらすのみならず、専制勢力の捲土重来に対してさえ、先導の局面をつくり出すことになるということを教訓としなければならない。満洲人の清王朝が崩壊前に「三綱五常」を推奨したように、いかなる専制王朝であれ、死に臨む前には専制的な思想文化統治を強化しようとする。同様に、「孔子尊崇」が袁氏の帝制復辟の前触れとなったように、いかなる専制復辟勢力であれ、復辟しようと思えば必ず専制的な思想と文化だけをただ1つを尊ぶ。このため、革命前の思想の呼びかけ、すなわち民主共和の理念を宣伝し、触れて回り、これを人々の心に深く浸透させることと、革命後の思想建設、すなわち一方で伝統思想文化対する整理と止揚を行い、他方で積極的に民主の新思想と新文化を打ち立て、それによって旧思想と旧文化の反攻を撃退することもまた、民主革命にとって極めて重要な思想内容である。

 経済革命の領域においては、自由主義生産経営方式の形成は、専制権力経済に反対し、伝統農業経済を突破しようとする結果であり、伝統農業社会解体の速度と程度と、自由経済形成の規模と効果は、民主と専制の反復対決の重要な社会的基礎である。このため、自由経済の形成と発展を突き動かし、農民の問題すなわち土地問題の解決に迅速に努めることは、民主革命の成否に深く関係しており、とりわけ革命と復辟のいずれがいずれに勝ち、負けるかの重大な局面においてはそうである。特に、伝統的農民が主体となっている国において革命が勃発した後、すぐにこの解決に着手できるか否かが、民主革命の成果を守り、専制勢力の脅迫と発動のもとに農民が新生民主政権に対して造反することを防止することになるのは疑いのないことであり、決して等閑視できないことである。フランス農民のフランス民主政権に対する全面的反乱、スペイン農民の王朝復辟勢力に対する広範な支持、辛亥革命後に土地問題を解決できなかったことがもたらした甚大な結果と、50年代初頭に中華民国がまさに台湾で農民の土地問題を解決したからこそ中華民国台北政権を揺るぎないものとし、ついに民主政治への道を歩み出したという教訓と経験、その得失は歴史の鏡の中に存在している。

 

(3)形式について論ず

 革命の形式問題に話が及んだときに、明らかに我々は即座に革命の暴力形式を連想する。しかるに、いかなる形式であれ、革命が1つの普遍的な歴史変革過程であるからには、旧専制制度を終わらせ、新民主制度を打ち立てようとする革命でありさえすれば、たとえそれが迅速に、さらには強行的に変革過程を推し進める意義があったとしても、必ずしも暴力の形式のみよってこれを推し進め、進行させなければならないわけではない。ましてや、革命に対して歴史がなんらかの必須の形式を規定しているわけではない。しかし、近現代世界が専制から民主へと移行する歴史発展の中において、民主革命は確かに過度に暴力の形式を使った。ミニェはこう説いている、「今日に至るまで、各民族の編年史の中において、いまだかつてこのような先例はない。犠牲になるべき者は常に犠牲になりたがらず、人に犠牲になってほしい者は常に他人に犠牲を強いる。良いことと悪いことも同じであり、簒奪の方法と暴力の方式を通じてはじめて完成させることがえきる」[1]

 ミニェは革命を「犠牲になるべき者と他人に犠牲を強いる者との衝突」と概括し、革命が暴力を採用する責任を平等にこの両者の身に負わせている。彼は明らかに、無意識のうちに是と非の境界を抹殺し、革命を音の鳴らない皿の曲芸と見なしてしまっており、彼自身が叙述したフランス革命史において、フランス民主革命が暴力を採用した原因、すなわち人民が暴力形式の採用を余儀なくされたこと、また「迫られて梁山に登る」(訳注:追い詰められてやむを得ず事を起こす)ことの本質を、すでに克明にあれほど正確に叙述したことを忘れしまっている。

 彼はこう述べている、「金銭的な問題においては、王朝政府は人数に基づく表決の方法を排除しなかったが、それはこうすることでより迅速に解決することができたからだ。政治上においては、身分に基づく表決に賛成したが、それはこうすることが革新の阻止に役立ったからだ。王朝政府が達成しようした目的は、新しい税の増収であり、人民に自らの目的を達成させるためではない……彼(国璽尚書のバロンタンを指す)は三部会の任務を以下の範囲内に限定した。税収問題を討論し、その表決を行う。報道出版の法律を討論し、様々な制限を課す。民事法と刑事法の改革を討論し、その他の改革はすべて排除する」[2]

 ゆえに、ミニェはまこうも述べている、「これは完全に国民の望みに対する無知、あるいは公然たる対抗であると言える」[3]。まさにこの無知と公然たる対抗(公然たる対抗がより正確)こそが、第三身分の強烈な不満を引き起こし、175年ぶりに開かれた三部会を流産へと追いやると共に、革命の発生を醸成した。第三身分は迫られて国民議会を開き、国王は議場の門を閉鎖する命令を下した。代表たちは雨の中を冒して球戯場に至り、「フランス憲法が制定されるまでは、決して国民大会を解散しない」と宣誓し、第二身分の自由貴族代表の積極的な参加を引きつけた。6月30日、国王は兵を派遣して群衆のデモを鎮圧しようとし、仕方なく兵士たちは国王万歳を叫ぶことを手段として命令を拒絶した。国王はついにヴェルサイユとパリに軍隊を終結させ、鎮圧を決断した。7月11日、国王はさらに深く民心を得ていた改革派の財務総監ネッケルの職を解いたため、さらに大きな民衆の憤激を引き起こした。7月12日夜、国王が終結させた軍隊とバリの群衆とが衝突し、暴力による鎮圧がついに始まった。7月13日、群衆は迫られて武器を持って起義へと立ち上がった。7月14日、残酷な鎮圧に遭って怒り狂った群衆はついにバスティーユ牢獄を襲撃した――こうして、偉大なフランス革命はいたしかたなく、また不可避的に迫られて暴力革命の形式を採用したのである。

 逆に、もし我々が歴史の事実に対して善意の仮定をするならば、つまり、三部会において国王が身分ではなく人数に基づいて政治問題の評決をすることに同意していたとしたら、第三身分は自ら国民議会を開くことはなかったはずだ。もし第三身分が開いた国民議会に対して、国王が議場の門を閉鎖する命令を下さなかったならば、代表たちも大衆感情の憤りのもと、雨の中を冒して球戯場の誓いをすることもなかったはずだ。もし国王が国民議会ががフランス憲法を制定することに同意し、パリとヴェルサイユに軍隊を集結させて鎮圧を試みようとせず、さらにはこの時にネッケルの職務を解かなかったならば、その後の国王と軍隊の衝突、群衆と軍隊との衝突はなく、群衆も決して7月14日にバスティーユ牢獄を占拠することはなかったはずだ。そうであったならば、フランス革命は暴力形式を採用することはなく、また7月14日の暴力の道に沿って、フランス革命全体の歩みが暴力形式から脱することができなくなることもなかったはずだ。同じように、もしルイ14世と彼の王妃が、修正憲法と立憲君主の憲法が制定された後、彼らがすでに得ている権力に安んじ、面従腹背でヨーロッパ専制勢力との連合を密かに謀り、懸命にフランス革命を破壊し、報復しようとしなかったならば、国王と王妃もまた断頭台に送られることはなかったはずだ。

 近現代の各国で勃発した民主革命とそれが用いた暴力の形式は、いずれも専制統治者によって「迫られて梁山に登る」ことになった結果であると言わなければならない。なおかつ、近現代の世界各国の民主革命の勃発、その暴力革命の形式はまた、いずれも専制統治者の企み、計画、頑なな拒否、一歩一歩迫ってくる暴力鎮圧の陰謀と行動によって、直接的に迫られて生み出されたものであると言うべきであろう。民主革命、特に暴力民主革命の勃発は、正しい革命思想と革命理念の影響下において、革命の趨勢が形成されたのちに発生するというごく少数の例を除けば、往々にして群衆が全く準備もなく、動機もない状況下において、暴力鎮圧に遭遇したことによる憤りがもたらしたものである。歴史の事実は、もし菜市口(処刑場)のみなぎる殺気と切り落とされた人々の頭がなかったならば、孫中山の革命は「天下共に棄つ」ということになっただろう。もしあの「血の日曜日」がなかったならば、ロシア共産革命が発動される口実はなかっただろう[4]。同様に、もし中共の「六四」の夜の大虐殺がなかったならば、天安門広場での中国人ならびにその後の大陸民衆が「暴動と暴乱」を起こすことは断じてありえず、ただ平和と非暴力の方法を堅持し続けながら、自らの適切な民主権力を獲得しようとしたはずだ。これが、近現代の世界の民主革命が迫られて暴力の形式を用いた共通する原因である。この真理がわかってはじめて、我々のこの時代において、白黒を分けずに革命を非難する、とりわけ民主革命を非難する種々様々な立場に対して、弁解の事実的基礎を打ち立てることができる。この真理を明らかにしてはじめて、我々は理性を堅持しながら平和と非暴力の民主革命を追求することができるのであり、専制統治者の残酷な暴力鎮圧に直面しても、同じように理性を堅持して、人民の正当な暴力反抗権力を守ることができるのだ。暴力革命の手段を用いるべきでないときに暴力革命の手段を用いるのは、確かに理性的ではない。しかし、暴力革命の形式をとるべきとき、また用いざるを得ないときに、暴力革命の形式をとることをためらうことは、同じように理性的ではない。

 このように言うからといって、もちろん暴力革命を用いて現存の専制制度と専制政権を打倒すべきことを呼びかけているわけでは決してない。なぜなら、古来より「天命の変革」には様々な非暴力の形式があったからだ。現代においては、ポーランドの労働組合「連帯」は長期にわたる合法的な闘争を続け、ポーランド共産党(訳注:ポーランド統一労働者党)の一党専制の歴史を終わらせた。東欧の共産国家は暴力を避けることに努め、政権交代を完成させた経験がある。とりわけ、ゴルバチョフとエリツィンは、バトンを渡して平和的に共産制度から民主制度への転換とその歩みの初歩的成功を解決した。これらすべてが示しているように、我々の時代において、平和な方法あるいは暴力による転覆ではない平和的な転覆という形式によって、専制から民主へと向かう最終的な移行を解決するとともに、民主革命と専制復辟との最後の対決を解決ことで、変革期の国家と人民が受ける損失は最低限度にまで抑えることができる。したがって、民主革命を最終的な勝利に導き、民主制度の最終的に確立させることは、可能であるばかりでなく、すでに目前に見えていることである。それは現代の人民の民主意識、民主精神および民主素養が高められた重大な成果であるばかりでなく、現代の専制政治と専制制度がすでに日増しに人心を失っている有力な証明でもある。また、まさにこのような2つの原因により、専制政体自身の四分五裂の局面と、専制統治集団内部の幾人かの権力者の民主意識の覚醒あるいは民主素養の向上をもたらした。ゴルバチョフが現代および歴史上の偉大な人物となった全面的な意義は、たとえ自身の最高権力を失ってでも、民主と自由を共産専制全体主義制度のもとから救出し、自らの優秀な人民に返したいと彼が思ったことにある。このため、我々は暴力を鼓吹する必要はなく、暴力革命を民主革命の唯一の方式とする必要も全くない。我々に必要なことは、民主政治の理念を堅持し、民主制度が専制制度に必ず取って代わるという信念を揺るぎないものとし、すべてのできる限りの努力を堅持することである。現代の専制統治者たちも同じように騙しと暴力の方式をとらず、人民に動かされ、さらには迫られる中で、望んで専制から民主へと向かう移行を一歩一歩完成させていくならば、我々は過激を求めず、過去も咎めないという前提のもとに、国家、民族、人民全体の福祉のために、非暴力の形式を用いて偉大な民主革命を徹底的に進めるべきである。もちろん私は、もし現代の専制統治者たちが暴力鎮圧、暴力拒絶、暴力反抗の迷信に対して、なお頑迷固陋であるならば、人民の自ら望まざる暴力、すなわち迫られて生み出された、理性的な人民の革命暴力には、民主革命の既定の目標と緊密なつながりが必ずあり、民主が最終的に専制に打ち勝つための犠牲となって奮闘することを惜しまない。チャウシェスクの身体にあった99の弾痕は、その最も透徹した証明である。なぜなら、専制は必ず敗れ、民主は必ず勝つからだ。人民は必ずや、革命と復辟の反復対決の最終的な勝利者になる。

 



[1] 脚注2に同じ。

[2] 脚注2に同じ。

[3] 脚注2に同じ。

[4] 1905年1月22日の夜明け、ペテルブルグの市民と労働者15万人は家族とともにツァーリの肖像画を掲げ、聖歌を歌い、列をなして冬宮にいる皇帝に向けて請願を行った。ツァーリは軍隊に発砲を命じ、1,000以上が死亡し、2,000人以上が傷を負った。日曜日であったことからこの名がつけられた。

 

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