
辛灏年
私はこれまで、歴史家になりたい思ったことはなかった。
1984年以来、歴史研究に対する私の関心は日増しに強くなっていったが、その願望はただ一冊の歴史小説を書くということにとどまっていた。史書を繙きながら、小説の構想を練り、史料を収集しながら、歴史人物の性格イメージを膨らませた。長編歴史小説『辛亥の後』を書くための準備をしっかりするために、私は多くの時間と精力を注ぎ込まざるを得なかった。
しかし、私は歴史を読んでますます困惑し、甚だしきに至っては苦悩の日々に陥った。ちょうどそのような時に、史学界で巻き起こった「国民党の抗日戦争」研究の高まりに出会った。中共は「抗戦勝利40周年記念」を借りて、台湾に対して新しい統一戦略を実施する必要があった。すなわち、抗日戦争で戦死した85名の国民党の将軍を抗日烈士として発表した。こうして、未だかつてない中華民国史と中国国民党史の研究という聖域に、一つの突破口が開けられた。河南人民出版社は先んじて『国民党抗戦殉国将校』を出版し、抗日の戦場で戦死した115名の国民党の将軍のために記念碑を立てて功績を称えた。広西映画製作所はこの機を生かして歴史巨編『血戦台児荘』を撮影して短期間放映し、はじめて日本と血戦する国民党士卒の英雄的気概を表現した。それ以後、苦心の「カバー」がなされた民国史と国民党史の研究書が矢継ぎ早に出版され、目を通せないほどである。さらには、何千何万という記録性の歴史文学書が大量に世に現れ、まるで大河が決壊してもはや収拾がつかないかのようである。中国大陸の民間は、ひっそりと意義深い「歴史再考運動」を始めた。その後、さらに「息を合わせる」かのように、この民間の歴史再考運動は、三民主義と辛亥革命、中華民国と中国国民党、孫中山先生と蒋介石先生に対する再研究と再認識の歴史段階にまで進んでいった......。
1989年、北京人民文学出版社が出版した長編小説では、すでに「理論対話」の方式を利用し、改めて辛亥革命を肯定し、辛亥後の歴史の紆余曲折した発展を改めて認識し直さなければならないことを打ち出している。「民主革命が初めて成功した後、打倒された専制勢力と専制制度が復活を図り、甚だしきに至っては復活が実現されるということは、世界的な意義を持つ歴史現象であると言うべきである」と指摘するのみならず、「過去を破壊すると共に、過去を繰り返そうとする農民革命は、革命の形式を通じて専制制度の復活を実現しようとする一種の特殊な歴史手段である......」[1]とも指摘している。
1990年、湖南人民出版社は大陸において率先して孫中山先生の自伝『革命なお未だ成功せず』を出版し、中国国民革命の歴史と孫先生の「革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし」という遺訓を改めて学び直し、孫中山先生の「世界の潮流は強大にして、之に順(したが)う者は昌(さか)え、之に逆らう者は亡ぶ」という遺書を改めて世に知らしめた。
1991年に北京団結出版社等が出版した数種類の『蒋介石伝』では、必要な「カバー」のもと、すでに蒋介石先生が指導した北伐戦争と防衛戦争の勝利という歴史的功績を肯定しているのみならず、蒋介石先生の再認識において、「反共以外」は基本的に肯定すべきだという地点にまで到達していた。
1992年、河南人民出版社は『中華民国研究叢書』を数十部出版した後に、さらに『国民党理論家戴季陶』という書を出版し、共産主義に対する三民主義の抗争、北伐戦争の性質とその成功の思想的原因、中国国民党清党の歴史的意義について、並大抵ではない論述を行った。
1993年、中国人民解放軍国防大学出版社によって出版された『国民党――一九三七』という書は、すでに明確にこう示していた。「50年前の、我々の偉大な民族の命脈を守ったあの戦争は、一体誰が行ったのか、誰が指導したのか、我々には知る権利がある......」。そして、蒋介石先生が指導した偉大な国家防衛戦争と、自ら抗戦を指揮して勝利に導いた不朽の歴史的功績に対し、未だかつてないほどの大胆な賞賛を与えた。
1994年、西南師範大学出版社によって出版された歴史大著『国民政府臨時首都重慶史』は、蒋介石に代表される中華民国政府と中国国民党がいかに積極的に抗戦準備をしたか、いかに抗戦の指導を堅持したか、いかに残酷な国家防衛戦争の中で民主政治の建設という難事を推し進めたかという歴史の真相に対し、宋美齢女史の祖国抗戦への卓越した貢献も含めて、等しく詳細で奥深い紹介と論証を行った。
1995年、中国大陸の作家鄧賢は、彼の長編大作『日没』の中ですでに明確に示している、「もし我々のこの世代が歴史を曲解したのならば、いま正せばまだ間に合う」と。作者はもう一つの歴史再考著書『大国の魂』においても、明白に言っている、「歴史は、忘却することはできても、改竄すべきではない」[2]と。
1996年、中国大陸の多くの孫中山研究者の長期にわたる要求と苦難に満ちた努力により、『孫中山全集』の出版がついに成った。中国大陸の人々に『真の孫中山思想とはどのようなものか』を知ってもらいたいという編纂者たちの決意した現実的要求は、その基本においてすでに実現された。
同年10月、二人の民主化活動家は中国大陸において投獄の危険を冒しながら、海外に向けて「双十宣言」を公に発表し、1945年の国共「双十協定」の民主建国原則に立ち返ることを要求すると共に、大胆に「人民に民主と自由を与えたのは誰か? 全中国人民の唯一の合法政府は誰か?」[3]と公言した。
1997年、大陸を去った署名な画家李斌先生と袁耀鍔教授はそれぞれ、真心を込めて、数年と十数年の歳月を費やして後、ついに海外において巨大油絵『国父』と『地獄河』(シリーズ)の創作を完成させた。前者は、孫中山先生の苦難に満ちた民主建国の過程と民主建国の理想に対して、高度の歴史概括を行ったものであり、後者は、毛沢東および中共50年の暗黒統治に対して、人心を震撼させる芸術表現を行ったものである。その価値、意義はどうして何幅かの絵画に止まるだろうか。
1998年、自ら10年の歴史再考に参画した本書の作者は、中国大陸の民間の歴史再考運動によってすでに獲得された巨大な成果の基礎の上に、ついに海外に赴いて中国現代史に対する体系的な解明を実現し、苦難に満ちた『真の「新中国」はどちらか』という書を完成させた......。
明らかに、当初小説を書くために歴史を研究しようと思っていた初志は、知らず知らずのうちに疾うに変わっていた。私の心の中には、次第に一種の責任感、苦しみに満ちた責任感が芽生えていった。大きな危険も感じたが、もはや二度と真実の歴史の中に足を踏み入れようとする私の欲望を止めることはできなかった。一人の先輩が早くから私に「中国現代史を研究すれば、きっと君は苦しむことだろう」と戒めていたにもかかわらず。まさにその通りである。子供のころに勝利者のペテンと嘘がすでに骨の髄まで深くまで入ってしまった上で、大人になった後で再び嘘とペテンを取り除こうとし、事実と真理を追求しようとするようなもので、こうした皮膚を裂き、肉をえぐる苦しみは、完全に想像できるものである。
二
もとより、歴史を研究する者は公正な立場でなければならない。そうでなければ、歴史に対する公正な判断を下すことはできない。しかし、「公正」とはどこに由来するのだろうか? 答えて曰く、それは共通の基準に由来する。共通の基準がなければ、いわゆる公正な立場などありえない。つまり、我々はいかなる社会的勢力、政党、個人の歴史発展における役割に対して、研究と判断を行うにしても、同じ基準、客観的基準、誰もが喜んで受け入れる基準を使用しなければならない。具体的に、中国の近現代の歴史発展の研究と判断について言えば、この共通の基準とは、進歩と後退の基準であり、愛国と売国の基準に他ならない。なぜなら、近代から始まった専制から民主へと向かう中国の苦難の過程は、辛亥革命後の中国現代史の発展において、民主進歩を推進したのか、それとも専制後退を形成したのかという大問題をもたしたからだ。また、中国は近代以来、しばしば外患の苦痛の歴史に遭遇してきたため、愛国か売国かという大いなる是非の問題が生じた。換言すれば、辛亥革命後、民主と専制との困難で複雑な長期の対決の中で、民主化と民生の発展を推進することこそが進歩であり、国難が迫り、民族存亡の危機に際し、祖国のため、民族のために自ら進んで犠牲を払い、苦労を厭わずに全力を尽くすことこそが愛国である。これに反するのは、間違いなく後退であり、売国である。これは明確なひとつの公正な基準であり、ひとつの客観的な基準であり、誰もが喜んで受け入れることができる基準である。この基準を見つけることではじめて、中国現代史の発展を調べる試金石を見つけ出すことができるのであり、中国現代史の種々様々な党派と個人、そしてすべての社会的勢力に対して公正な研究、分析、判断を行うことができるのであり、幾重にも折り重なった歴史の濃霧と種々様々な政治デマを振り払い、仮相を暴き、実情を識別し、様々な誣告と非難に回答することができる。
私は古い歴史資料の中に沈潜した。そうすることによって、埃を払い、偽装を暴き、真実と真筆を追い求めようとした。さらに私は、新しい歴史再考著作の中に沈潜した。そうすることによって、どうすることもできない包装を解き、本当の話と真相を探し求めようとしたのだ。
私は丸々2年間を費やして、「中華民国編年史綱」と「中国近代史大事記」の編纂を終え、私の「現代史論」にとっての歴史事実の基礎を確立した。
私は、大きな精力を傾けて、マルクスとレーニンの著作を再読した。それは、「お経を読み間違えた坊主たち」のために、天上にはなお真正の「マルクス主義の天国」があるということを証明してあげるためではなく、理論上において、この「天国」はこれまで全くありもしなかったものである、ということを証明するためであった。
私は再度時間をつくり、三たび西洋哲学史を学び、他者が「造反」時代に記した数十万字の哲学書を自ら整理し、西洋思想の発展とマルクス主義誕生の歴史関係を明らかにすべく努めた。さらに、西洋近代史の再学習から、特に19世紀ヨーロッパの歴史発展の本質的な理解の中で、マルクス主義の発生はヨーロッパ19世紀の歴史発展に対する反動的な新認識であり、マルクス主義は専制復活を鼓吹する哲学であるということの本質を明らかにした。
私が従事した最も困難な仕事、また最も基礎的な仕事は、「帝国主義」や「資本主義」といった、すでに「慣用化された」社会科学の概念に対する精査であった。美学に対する長年の愛好と研究は、私をして、「概念の明澄化」の並々ならぬ重要性を発見せしめた。マルクスの幽霊が世界をあまねく闊歩したのは、第一に近代科学の名義によって大量の伝統的造反思想を包装したからであり、第二に「科学」的共産主義理論によってあまりにも多くの社会科学の概念を改造したからである。そのために、我々が批判を始めると決まって、「批判の武器」が「武器の批判」を受けることがないために、我々の批判は常に敵の「罠」にかかってしまうのだ。
私にとって最も重要で重大な収穫は、やはり革命と復辟の理論体系の形成である。世界が専制から民主へと移行する近現代の歴史を真摯に調べると同時に、各国の民主革命史を詳細に研究した基礎の上に私が発見したのは、民主革命が最初の成功を収め、共和国体が最初に創建された後には、民主革命と専制復辟との繰り返される対決、持続する対決、残酷ない対決という艱難の歴史過程が存在するということである。この歴史過程の中で、民主革命が初めて成功し創建された共和国体は、必ずや様々な専制復辟勢力によって倒され、それから一定の歴史的時期においては、革命の名義のもとに王位、王権、王朝、専制制度の公然たる復辟、形を変えた復辟、全面的復辟さえが実現されてしまう。それは復辟の成功により、専制統治全体が歴史の狂気の時代を推し進めるまでに至る。このため、民主革命の反復過程をいかに認識し、民主革命の歴史範疇をいかに定め、専制復辟は専制制度の一種の死亡形式に過ぎず、民主制度を最終的に確認し確立させ、民主革命が成功を勝ち取るための歴史の里程標であることをいかに見極めるかは、新たな重大な歴史課題であるだけでなく、極めて重大な政治理論の問題であり、研究と解決を必要としている。
上述の思想の形成は、それによって中国現代史の艱難、反復、曲折の過程を明らかにし、孫中山先生によって創建された新中国――中華民国の盛衰興廃の歴史が世界の多くの先進国家の民主化の歴史と決して異なるものではないことを示しており、民族の自尊心と自負心を大いに高めてくれる。それのみならず、さらに一歩進んで、民主に対する当代中国大陸の人民の飽くなき追求と、孫中山先生を歴史的指導者とする中国民主革命――すなわち中国国民革命との間をつなげることの必要性と科学性を私に考えさせ、最も重要な思想理論の基礎となった。
私は没頭した、だが、またそこから抜け出した。歴史の実像と虚像が互いに巻き起こす風雲と、歴史の冤罪が生み出す血涙は、私をして沈思黙考させ、怒らせ、悲しみを歌に託して嘆息させた。そればかりでなく、それらは少しずつ私の魂を浄化させ、さらには専制的な文壇の名利と堕落した現実から私を徹底的に解放してくれた。
私はまさに洗礼を受けた苦しめる魂のごとく、是非が交錯し、真相が不明な現代中国の歴史の暗雲の中を駆け巡った。王朝交代が目的であった伝統中国の農民戦争の戦場に立ち尽くし、さらには19世紀の欧州を行ったり来たりしながら、「死者の霊」と対話した。共に討議したのは、それは西洋において「死体を借りて生き返った」原因であるはずはなく、東洋において人々の息の根を止め、大河のごとき血を流させた罪業に他ならないということであった。
三
私は書いたのは、「時流に合わない」書である。時流に合わないとはどういうことか。第一に、中共は従来から自ら新中国を標榜し、孫中山が創建した中華民国を旧中国として誹謗してきた。第二に、今日の台湾では、中国の国民党たることさえ望まず、中華民国の国統と法統さえ放棄しようとし、中国そのものでさえ要らないという者がすでに存在している。第三に、近年中共は大陸においては日増しに腐敗の度を深めているが、海外においては、かえって日増しに「良く」なってきている......[4]。なぜなら、著名な台湾の新聞でさえ、「時勢を知る者は英傑なり」という中共の「嘲笑を帯びた」言葉を用い、「一つの中国とは中華人民共和国のことである」ということを中華民国台北政権に認めさせようと勧めているからである。さらには、賞賛まじりに「中共こそが歴史の潮流の一方に立つ者であり、中共こそが正しい」という中共の大言壮語を報道している。つまりは、ただ中共のみが、「歴史の趨勢」を代表しているというのである[5]。
しかし、現在の事実はこれに異なり、中国大陸の人々の中国現代史に対する再考は日ごとにその広さと深さを増し、孫中山先生の民主革命理論と民主建国思想に対して再認定と再継承が行われ、蒋介石先生の歴史的功績の再認識と再肯定が行われ、中華民国の国統と法統に対する忠誠と尊重が行われている。これらすべての目的はただ一つ、すなわち、新中国――中華民国が改めて全民族の「共通認識と合意」を獲得するという前提のもと、再び「三民主義の祖を認め、中華民国の宗に帰し」、それによって孫先生から託された護国・護法の歴史的重責を最終的に完成させ、民主化過程の流血と混乱をできる限り減らし、速やかに中国大陸を改めて正しい民主建国の方向と正しい民主政治の軌道上へ戻すことである。志は民主統一であって、決して専制統一ではない。そうでなければ、今日、すでに民主と繁栄を実現した台湾において、中国と中華民国さえもう要らないとする友人がいるこの時にあたり、中国大陸において、なぜ多くの知識人たちが危険を冒してまで歴史を解明し、歴史を糾そうとし、さらには十数年の歴史再考運動を続けた後に、歴史的な「認祖帰宗」運動を推進し始めたのか、理解することができないだろう。歴史の鑑(教訓)は、ロベスピエールとその共和主義の英雄たちは、敵によって断頭台に送られはしたが、彼らによって創建されたフランス共和国とその共和国の国統は、86年の革命と復辟、すなわち民主と専制との残酷な対決を経たのち、永遠の命を獲得することができたことを教えてくれている。二月民主革命によって誕生したロシア臨時民主政府は、わずか8ヵ月しか存続せず、共産革命の名義における復辟によって倒されたが、長期の共産専制復辟統治に遭ったロシア人民は、ついにこれを打倒し、74年前に創建された民主政体を再建し、その国歌・国旗・国体・議会形式を完全に復活させた。近現代の世界の多くの前専制国家は、民主化に向かう途上において、いずれもがこの同じ艱難の過程を経験している。
ゆえに、偉大なる辛亥革命によって創立されたアジアで最初の民主共和国――中華民国が、たとえ80余年にわたり何度も起伏を繰り返してきたとしても、国内外の様々な専制勢力の抵抗と転覆を経てのち、特に大陸における中共の長きにわたる専制復辟統治が終結したのちに、必ずやその国統と法統を再び継承し、発展させるであろうことを、我々は完全に信じる理由がある。なぜなら、「周は旧邦なりと雖も、其の命維れ新たなり」だからである。すでに50年にわたり、中共の全面的専制復辟統治に遭ってきた中国大陸の人々は、中華民国こそが真の全中国人民の「新中国」であることをすでに知っており、あるいはまさに今、知ろうとしている。作者とその多くの大陸同胞は、十数年もの長きにわたる歴史の再考を経てきたがゆえに、すでに明白にわかっている。かつて陰謀によって全国政権を奪取し、旧ソ連の各民族人民に対して74年の専制復辟統治を実行したソ連共産党でさえ、「歴史の趨勢」を代表することはできず、ついに1日のうちに瓦解した。そうであるならば、中国大陸において50年の専制復辟統治を実行してきたが、今日に至るも中国を統一できず、すでに天の怒りと人の恨みの買い、滅亡への道を歩もうとしている中共が代表するところのあの「歴史の趨勢」とは、単なる「逆流」に過ぎないということである。中共の専制復辟統治もまた、旧ソ連のあの専制復辟統治の堡塁と同じであり、民主と自由に対する中国大陸の人々の絶えざる追求によって、最終的には土崩瓦解する。
黎安友教授が本書のために書いてくれた序言の中で述べているように、本書の著者は社会活動家ではなく、単なる一学術研究者に過ぎないが、次のように厳粛に表明する。著者が本書の上巻において分析し、弁護しているところの中華民国と中国国民党とは、かつてアジアで最初の民主共和国となり、苦難の中で民主建国の過程を推進したあの中華民国のことであり、かつて中華民国を創り、辛酸をなめながらもこれを守り抜いたあの中国国民党のことである。すなわち、孫中山先生と蒋介石先生ならびにその真の継承者たちによって創始され、守り抜かれ、築き上げられたところの中華民国と中国国民党に他ならない。それは断じて、中華民国の国号を戴ながらも中華民国の国統を放棄しようとし、中華民国の国統を継承しながらも中国全体から離れようとし、中国国民党の看板を掲げながらも孫中山先生の三民主義の理念を軽視し、中国国民党の基本的な民主的性質を誹謗し、中華民国の民主建国の苦難の過程を歪曲し、かつて艱難の時代において台湾の繁栄と進歩のための歴史的基礎を築いた蒋介石先生を否定する中華民国と中国国民党ではない――つまり、一方では中華民国と中国国民党の歴史伝承を断ち切ろうとし、他方では台湾全体が祖国分裂と歴史断絶の道へと進むように誘導しようとする中華民国と中国国民党ではない――もしこのような中華民国と中国国民党がすでに現れ、あるいは現れるかもしれないとするならば。
なぜなら、台湾のためにするのではないからだ。我々は大陸のため、台湾をその中に含む全中国のためにしているのだ。100年来、東洋の専制強国はその侵略の野心から、中国の統一ではなく、常にその分裂に力を尽くしてきた。西洋の民主列強もまた、自己の利益のために同様に、中国の統一ではなく分裂を望んできた。80余年にわたり、中国は専制から民主へと向かう艱難の過程において、革命と復辟の繰り返される対決を経て、再び中国の分裂と分割統治をもたらした。実にいわゆる「専制倒れて統一成り、民主敗れて分裂生ず」である。しかるに、全中国の民主化は必ずやその最後の成功へと向かう。中国の民主統一は必ず実現されなければならないのみならず、必ず実現できるのである。孫中山先生自らの手によって創建され、蒋介石先生によって守り抜かれ、そして両岸の人民によって共に築かれていくであろう、民主的で統一された強大な新中国――中華民国は、必ずやその少年期の傷跡を治癒し、古き文明と文化、そして未来の進取と進歩を身にまとってこの世界に屹立し、この世界に新たな進歩と繁栄をもたらすために、心を尽くし、知恵をつくし、力を尽くすことだろう。
もう一人の先輩が、かつて私に「歴史には情けがある」と言ったことがある。ならば、情けある歴史に、我ら情けある者たちにお返しをしてもらおうではないか。我々が歴史を理解したように、歴史もまた必ずや我々を理解してくれるはずだ。
1998年11月19日 米国コロンビア大学にて
[1] 高爾品『少夫人達琳』321、人民文学出版社、1989年7月。
[2] 上述の歴史再考著書が統治の危機をもたらすかもしれないことを察した後、中共は、数回にわたって上述著書の出版と発行の禁止を発令した。その理由は、「これらの著書は公開すべきでない史料を公開し、過度に蒋介石と国民党統治下の中国を美化した」というものであり、「悪玉を善玉として書いた」からである。
[3] この二人の民主化運動家とは、王希哲氏と劉暁波氏である。
[4] 近年、中共政権は日増しに腐敗し、人民の反抗は日増しに激しくなっているが、海外における中共に対するニュース、「学術」、輿論については、「全面的に良好」となっており、甚だしきに至っては「日ごとに良くなっている」。
[5] 1998年10月19日、北米の「世界日報」は社説「辜江会と氷解の旅」を発表し、次のように述べている。国府外交部は北京から異なる方法で非難され、台湾の国際空間を圧迫している。辜振甫は北京で呼応し、銭其琛はより率直に回答している。すなわち、両岸の外交戦場の消長は潮流に従う。「台湾の国際空間はますます小さくなっていくのが時の趨勢である。中国には、時勢を知る者は英傑なり、という言葉がある。台湾外交部の言い分は完全に主観的な想像である。もし歴史に順応することができなければ、なぜ国交がある国々がどんどん減っていくか、台湾は理解することが難しいだろう」。辜振甫が北京で挫折に遭い、銭其琛が辜振甫に対してこの話をしたのならば、そこには二重の意味がある。どちらが歴史の正しい側に立っているか、銭其琛は外交戦場の消長をもって、中共こそが歴史の潮流の一方に立っており、正しい側であることを証明している。そして、「時勢を知る者は英傑なり」という評論は、「自ずから嘲笑の意味を帯びている」。